本文へスキップ
八王子城跡オフィシャルガイド
Official Guide
オフィシャルガイドの会
見出し
HEADLINE
■ 雲竜(うんりょう)の城 八王子城
八王子城は山城なので、しっかりと降った雨が切れ、晴れ基調に変わっていくときなど、雲が山襞(やまひだ)を昇り竜のようにせり上がっていきます(撮影:14/11/29)。
いわば、雲竜(うんりょう)の城、八王子城という様相です。
秩父山系と丹沢山系から挟まれながら関東平野に押し出された関東山地の中で、さらにその突端に八王子城山があります。
八王子城は標高460mの急峻な山(深沢山)全体を覆いつくすように構築されています。
その位置どりと地形が織りなす結果として、竜が山襞を這い上がるような、雲竜の城としてのダイナミズムを見せてくれます。
雨が上がり晴れに変わっていく切れ目によく見られます。
[この時、場所を要害部(山頂部)に移しましょう]
要害部は山頂曲輪(本丸跡ともいわれます)を中心にそれを取り囲むように数個の曲輪群で形成されています。
せり上がる雲竜(うんりょう)を山頂部で迎え撃つとこんな感じになりました。
次から次と雲が湧き上がり要害部の制圧を図るかのように押しよせてきます。
下に垣間見えるのが根小屋地区、すなわち家臣団の屋敷などで、さらにその回りに城下が広がります。
(9合目の上、ビュースポットから撮影:14/11/29)
[この城の最後のときは・・・・・]
ここを攻め上げた前田利家軍、左手背後(搦め手)からは上杉景勝軍、この這って湧きあがる雲のように怒涛のごとく攻め上がったのでしょうね。
もちろん、そのときは紅葉ではなく夏の暑い時期、1590年(天正18年)6月23日(旧暦)でした。
■ 第35回いちょう祭り、充実したイベントが沢山でした
第35回「八王子いちょう祭り」が開催されました(14/11/15-16)。
今年は北条氏照隊として初めて甲州街道にうって出て見事な行軍を敢行することができました。
また、着ぐるみキャラのうじてるくんも面目躍如、親善大使としての役割をいかんなく発揮してくれました。
さらには、ブースでは甲冑着装体験、八王子城跡の説明コーナーなど、訪れる人の切れ目のない賑わいでした。
参加されたガイドの皆さん、市文化財課の皆さん、本当にご苦労さまでした。
(ガイドの皆さんも次々に集まってきて役割確認です)
(初めての甲州街道、4車線の中の1車線を利用しての行軍です。規制のため、ガイド・文化財課の他、少年甲冑隊の父母の協力もいただきました)
(うじてるくんはどこへ行っても握手攻めです。目が回るようです)
(甲冑着装体験、希望者は引きも切らずガイドも昼食を取る時間を惜しむくらい)
(少年甲冑体験、よかったら来年の甲冑講座に参加してね)
詳細として、NPO「八王子城跡三ッ鱗会」のホームページの掲載を紹介します。
リンクは次をクリック
甲州街道初行軍
うじてるくんの活躍は
うじてるくん日記
甲冑の体験コーナーは
甲冑着装体験
■ 第3回 北条氏照まつりが開催されました
去年は無念にも雨で流れましたが、今年はこれ以上は無いというような晴天の中、北条氏照まつりが開催されました(14/10/19)。
今年は行進の隊列の中心をなす武者行列のほか、マーチの演奏グループや演舞ダンサーのグループも加わり色彩豊かなパレードがくり広げられました。
また、到着地の元八王子小学校では、着ぐるみゆるキャラの「うじてるくん」がお出迎えし、ちびっこのみなさんとのいい交流もありました。
(元八王子地区にある高校から出発し、八王子隊の行進が続きます)
(到着地では、うじてるくんもお出迎えし合流しました)
詳細として、NPO「八王子城跡三ッ鱗会」のホームページの掲載を紹介します。
リンクは次をクリック
武者行列,甲冑隊
うじてるくんの活躍は
うじてるくん日記
■ NPO法人「八王子城跡三ッ鱗会」がスタートしました
NPO法人「八王子城跡三ッ鱗会」が東京都から認証され、14年10月1日からスタートしました。
個人や団体が参加して八王子城跡を盛り上げていこうというものです。
同時にそのホームページも立ちあげられました。
この Official Guide Group のホームページとは互いに友好関係をもち発展していけるものと確信しています。
リンクは次をクリック
八王子城跡三ッ鱗会
サイトの特徴的なポイントを2〜3、あげておきます。
[知りたいことを地図上でクリック]
八王子城の鳥瞰図から知りたいことを地図上でクリックするとその解説が参照されます。
いわゆるクリッカブルマップです。
[慶安の古図を読み尽くす]
八王子城を知る上で重要なカギとなるもののひとつが慶安の古図です。でも、ひとりで謎解きするのは大変です。
そこでポイントしクリックすると解説が表示される仕組みを準備しました。
これもクリッカブルマップです。
[うじてるクンの特設コーナー]
着ぐるみマスコット、うじてるくんの常設のコーナーを準備しました。
ここでうじてるクンの活動がわかります。
リンクは次をクリック
うじてるくん日記
■ 御主殿跡復元的整備その2 対ガイド説明会
御主殿地区で昨年(13年度)行なわれた発掘調査で出現した池泉庭園遺構などの「復元的整備その2」の工事が行なわれていますが、その中間報告が現地でガイドメンバーを対象に行なわれました(14/8/21)。
説明にあたったのは八王子市文化財課の学芸員のSND氏で、対象はオフィシャルガイドグループのメンバーでした。
概要として、今回も12年度に御主殿地区で行なった大規模な復元的整備に相当する形で復元化を行なったこと、新たに出現した成果である池泉式庭園跡などについて、表示板を新たに提示する。
また、周辺の表示板のメインを書き換える、ただし、一部はそのままにする。
発掘調査時、最も話題を呼んだ池泉庭園については、現時点では特別な手を加えず、隣接する部分と同じような芝張りとする、などであった。
文化財課およびガイドの皆さん、汗の流れ落ちるような厳しい暑さの中、ご苦労さまでした。
(御主殿曲輪に出て現場に向かいますが、その中でも汗が落ちてきます)
(学芸員のSNDさんから復元的整備の内容が紹介された)
(2年前に掲示されたメインの表示板は書き換えるという)
(H4,5年の発掘で枯山水の庭園とした記載は、全く逆の池泉式となったが書き換えない。ガイドの説明で補って欲しいとのこと)
(2年のなかで脆くも崩れた礎石(イメージ石)もあり、それは修正した)
■ 落城命日の追善供養を行いました。
八王子城の落城は1590年6月23日ですがこれは旧暦で、今年でいえば7月19日です。
この落城命日に合わせて城主北条氏照公にゆかりのある宗関寺にて追善供養を行いました(14/7/19)。
これはガイドグループの企画によるもので、昨年から始め今年はその第2回目です。
また、その後には場を氏照公の墓前に移し、参加者による焼香を行いました。
さらに、兄弟城の鉢形城および支城の滝の城から武者姿で駆け付けてくれた面々が、焼香の後、墓前で居合斬りの演武を披露してくれました。
真剣を用いた切れ味鋭い演武、どうもありがとうございました。
(場所は少し移っていますが、宗関寺は戦国時代から氏照公の菩提寺でした)
(宗関寺本堂にて追善供養を行いました)
(氏照公の墓前で武者姿や甲冑姿で焼香をしていただきました)
(滝の城の武者です。戦場では槍の攻撃をまともに受けないよう低く構えます)
(鉢形城の甲冑武者です。二基とも一刀両断です)
(ご苦労さまでした。そして見事な演武どうもありがとうございました。)
■ 13年(H25)発掘調査 池遺構etcの解説が行なわれました。
市文化財課がガイドに対して行う月次定例会が場所を変えて郷土資料館で行なわれました(14/6/24)。
この中で、2013年度(H25)の発掘調査:池遺構etcの解説が市文化財課の学芸員のMRYさんから行なわれました。
また、それに先だって2013年度(H25)の発掘調査についての詳細が記載された「国史跡八王子城跡 X[」が配布されました。これはA4版56頁からなるもので内容は密度が高いものです。
【報告書の要約】
その要約を以下の1枚のシートにまとめました。
(城館のイメージはガイダンスシアター「八王子城物語」より)
次に、報告書に記載されている要点を列記します。
【庭園遺構】
確かな造園技術によって作成された池庭(池泉庭園)である。
堆積物の鑑別・同定から、常時、豊富に水を湛えていたものとはいえない。むしろ通常、池底は乾燥状態にあった。
MRY氏談:池(庭園)は未完の状態であった。
【導水路・排水路】
池泉庭園としての導水路は上図に示したように2系統あった。
排水路は不明である。
【汀線・護岩石・水面高】
汀線は2段ないし3段の護岩石で構成されていて、最下段の護岩石は汀線を形成し、陸地側の2段目、3段目は観賞用に配慮した石組を施したものである。
【三尊石、その景観】
三尊石は本庭園最大の景石である。
その立ち位置は御主殿から正面にのぞむように配置されている。主石は菱形に成型されている。
一方、会所からは三尊石を横にのぞみ、北に配置される導水系や山地部が借景として展開される。
【使用された石材】
4種類からなる砂岩で、いずれも八王子城周辺に由来する。
御主殿に近いところで採掘され運搬されたものと思われる。
【検出された穀類】
籾のついたまま炭化した備蓄兵糧と考えられるオオムギ、コムギなどが多く検出された。その他にイネ、アワ、ヒエがわずか。
池のゾーン1では、オオムギが6割、コムギが3割、また、ゾーン2では、オオムギ、コムギがほぼ同数で98%をしめていた。
【花粉分析】
雑草類の草本花粉にまざり僅かであるが観賞用のキク、持ちこまれたと思われるベニバナの花粉が検出された。
(ご助言の労をいただいた八王子市文化財課諸氏に感謝いたします)
■ 柵門台に石垣群出現。
柵門台の下と金子曲輪側面に石垣群が新たに出現(顕在化)しました(14/6/1)。
八王子市教育委員会が進めている一連の石垣の調査測量を目的とした整備の結果、新たな戦国石垣遺構が顕在化しました。
とくに柵門台の下のものは圧巻で、殿の道コースにある四段(団)の石垣にも匹敵する迫力です。
石垣の上下の分離帯にはしっかりと「犬ばしり」がしつらえられています。
現在は、人が立ち入ることにより崩落の危険性や歴史遺構の破壊も引き起こしかねません。
まだ調査進行中で「立ち入り禁止」テープなどが張られていないのは文化財課の手はずが間に合ってないためです。
したがって立ち入りは「厳重禁止」です。
なお、ガイドの姿が見えますが探索のためです。皆さんは下りたりしないで下さい。
下の写真は金子曲輪側面で出現(顕在化)したものです。ここも相当足場が悪く「立ち入り禁止」です。
以上、これらは山頂の八王子神社に向かうメインの表参道からすぐに見られるので今後来城者に人気が出るのは必定です。
また、四段の石垣を見て山王台から柵門台にトラバースして新石垣群を見るなど、城跡探訪コースのバリエーションがひろがります。
早急な見学環境の整備を市文化財課にお願いします。
【追記】
上の記載の数日の後に、八王子市文化財課によって付近一帯に立ち入り禁止の表示がなされたようです(撮影は:14/6/15)。
また、旧道から見とおせるように少し手を入れてくれました。
関連の記載は
ここをクリック
■ 御主殿から初出陣です(八王子神社例大祭)。
八王子神社(4/19)、八幡神社(4/20)の例大祭がありました(14/4/21)。
それに合わせて4/20日、八王子城三ッ鱗隊は初めて御主殿から出陣し城下(根小屋地区)を行軍しました。
手作り甲冑隊のメンバーを中心とし、また趣旨に賛同し馳せ参じた諸氏合わせて30余名、堂々の行進となりました。
やはり武者隊が御主殿曲輪に集結するというのは特別なものがあるようで、このときには城山一帯にも空気がピーンと張りつめたものがあり、時が420年巻き戻されたような不思議な空間を共有することができました。
(小田原の援軍にもれた老兵、おんな、こどもで守備した八王子城、落城の時はこんなんだったのですかね)
(決起の儀式もすんで、いざ出陣です)
(武者姿と石垣、やっぱりよく似合います)
(曳橋を渡り、大手道を下ったつもりで、この人道橋を渡ります)
(根小屋地区を下り(写真右)、城下を行進します)
(八幡神社の表参道から境内に入りました)
(最後は全員で二礼二拍手で参拝です)
(出陣前の記念写真はやはり虎口上の登城石段。決戦は夜半過ぎです)
フォトフォルダーは
ここをクリック
■ 城跡ガイド3期生の導入研修が行われています。
この日は城跡の実際のフィールドを使い現地研修が行われました(14/3/15)。
講師陣には八王子市文化財課から4名の体制でのぞみ、メインの講師をOZKさんがつとめました。
いずれも城跡ガイダンス施設を起点として、午前中は御主殿地区、午後は山頂地区からさらに詰の城まで足を延ばすというものでした。
広大な城跡エリアの中で一歩ずつご自分の城跡ワールドを作り上げて下さい。
(まず、ガイド活動の起点となる管理棟前で先輩ガイドとあいさつの交換です)
(御主殿曲輪の土塁に登り、この城の防御構造を実感します)
(御主殿への登城階段、の登り口(虎口)で発掘・復元された遺構を確認)
関連の記載は
ここをクリック
■ 都立埋蔵文化財センター主催「八王子城跡」講演の報告。
多摩市多摩センターで上記講演会がもたれました(14/2/12)。
演題は「八王子城跡〜近年の発掘成果を中心として〜」、講師は八王子市教育委員会:村山修さん、講演時間は2時間半、およそ180名の方が聴講しました。
前段で、
八王子城が築かれたときから落城までの時代背景
次いで、
昭和26年に国史跡に指定されて以降、1990年(落城後400年)前後の取り組み
最後に、
2013年(H.25)の発掘の成果 でした。
1992-1993年(H.4-5)の精力を注入した2年間に及ぶ発掘に対し、13年(H.25の発掘は20年前に樹木保存上の問題で手を入れられなかった部分が一転調査可能になって実現した発掘で、成果として予想をはるかに超え文書(もんじょ)にはないリアリティをもって戦国の在り様を現代に提示してくれました。
そこから、H.4-5の事業と同等の位置づけなっていたのがおもしろくもあり感慨深かった。
(下は当日の資料から借用・転載)
講演の中で村山氏は、13年(H.25)の発掘で出現した池泉式の庭園遺構により
御主殿は大名クラスと同様の施設を有していた
とまとめていました。
すなわち後北条一族の主城は小田原です。それに対し、八王子城や鉢形城はいわば支城です。
それにもかかわらず想像を超える規模の庭園は、その20年前に発掘された御主殿遺構とそのとき出現したベネチア製レースグラスなどの遺物と相まって、分相応であったか、では推し量れないほどの文化を構築していたことになります。
次は筆者も興味をもっていたことのひとつで氏が講演のなかで述べた、出現した池が常に水をたたえていたか?、ですが、これに関連する写真を多少提示します。
なお、次の1枚はガイド仲間のYMT氏が投稿してくれたものです。(13年10月)16日未明に関東地方を台風が通過した日のものです。
村山氏は講演の中で、上とほぼ同じときに撮ったものと思われる写真を提示し、このときの御主殿の滝の水量が(異常に多かったことが)わかるよう同時に貼り付けていました。
これは説得性を出すためには大変いい手法です。
氏はそれから話をすすめ、これくらいの量が降っても、結局、1日で抜けてしまい、
戦国の当時、はたして池には常に水があったか
との疑問の提起です。
これは次の視点を加味して考えるとよいと思います。
このときの状況は、池の底面に張った粘土面に何本かのトレンチが掘り込まれていた(下の写真参照)。
そこが排水溝の役目をし水がすぐに逃げる、というこで推察できます。
ということで、特別な豪雨がなければ取水できないというわけではありません。
下の写真は普通に雨が降った違う日の写真ですがしっかりと水が貯まります(13/10/26)。
今回、池が発掘されたときの底面があまりにもきれいで「本当に水が入っていたのかいな」と疑問が残るのですがそれには別の面も考慮した方がいいと思われます。
当時、氏照公は小田原に詰っぱなしであった。残された家臣(老兵)が掃き集めたお百姓たちを陣頭指揮しこの広大な山城を構築していかなければならなかった。
そんな中ですべてに手が回ったわけではなく、優先順位が低い庭園はまだ未完であった、とか。
せっかく出現した三尊石組を中心とする庭園も遺構資源保全のため埋め戻され、もう私たちは見ることができません。
わずかに本物が見られるのは、戦国時代からそこに腰をすえ時の推移を見守ってきた主石で、戦国からの存在を主張している「戦国証言石」です。これとて現在見られるのはほんの先端の一部の三角形の部分です。まあ、家紋の「三鱗」の先端部分ですね(14/2/13)。
ここをクリック
最後に、村山氏が言っていたようにあとは「三尊石組」の背部の発掘調査ですね。
これが実行されないとまだまだどれほどの規模があったのか判然としません。
筆者も期待します。ぜひ、関連の行政機関を説得のうえ近い将来、未着手部分の発掘調査が実現することを !!
■
2013年のトピックス
■
2012年のトピックス