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Official Guide

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■ 八王子城 詰城北尾根 探訪踏査


八王子城の詰城北尾根の探訪踏査を、城跡ガイドと三ッ鱗会のメンバーを中心とした参加者14名で行いました(撮影:18/12/1)。
詰城北尾根は八王子城の西端に位置し、これが築城された八王子城域の西の縁(へり)を構成します。
この記事では、今回探訪踏査を行ったポイントをかいつまんで報告します。



(紅葉のトンネルをくぐり抜けるように上を目指します)

12月とは思われないような暖かさの中、八王子城跡管理棟前をスタートしました。
取りあえずの目標は馬冷し(こまびやし)です。
そののち一般のルートは通らずトラバースして、詰城北尾根の北端に取り付くという行程です。



(詰城北尾根の北端までのルートを図示しました)

     

今回、八王子城域の西側の奥の地域を周回するわけですが、その起点となるのが馬冷しです。
ここで一般のルートから離れます。



(馬冷し、見ればおわかりのように堀切ですよね)

     

詰城北尾根はかなり急峻な角度で北側に下っています。
そこで登りとして歩いた方がより安全ということで、北@から南Cへ行動しました。
主な踏査ポイントを下の4ケ所としました。
ちなみに下図の中で、茶色、赤、ベージュで塗ったところは戦国時、戦略的に手を加えた場所(平地にした曲輪など)です。



(踏査ポイントを@〜Cで示しました)

     

踏査ポイント-@です。
観察しやすいようにするためと、安全のためにロープを張りました。
事後にはロープを回収してあります。
この地域には山梨側(西側)に面して複数の石垣状遺構が連なります。



(石垣の上に立っている人(赤)と比べるとその大きさがわかります)

     

踏査ポイント-Aです。
ここは詰城北尾根の中央部に位置します。
ポイント-Aも山梨側(西側)に面して複数の石垣状遺構が連なります。
石垣状遺構の規模(幅)はポイント-@の2倍くらいの広がりです。
八王子城の石垣の多くは野面積み(のづらづみ)ですが、ここの石垣(下図)を見ているとその中でも穴太積(あのうづみ、穴太積み)のように見えてきます。



(画面の右側にも同じ規模の石垣が広がります)

     

踏査ポイント-Bです。
このあたりは随所に石塁が連なります。
石垣・石塁を分断するように倒木も多く認められます。



(画面の右側が山梨側(西側)です)

     

踏査ポイント-Cです。
このあたりにも石塁が連なります。
特にここは小丘のように盛り上がっています。
上に鎮座する小曲輪状の構造を下支えしているのでしょうか。



(こんもりとした小丘状の石塁です)


構築されたのは戦国期のいつの時期か

八王子城が築城を開始したのは、調査研究上は1582年(天正10年)以降が定説になっています。
はたしてこの詰城北尾根の石垣・石塁群はいつの時期に構築されたものか。

廿里(とどり)の戦い(1569年)のあと
対 武田に向けたものか

はたまた、のちの時代の
対 豊臣に向けたものか


参加された皆さん、いろいろ意見交換をしましたが議論は尽きません。
興味と疑問はますます深まるばかりでした。


(皆さんお疲れさま。カメラで一人抜けています)

詰城北尾根の石垣・石塁群について当HP編集事務局(Fuma Project)はさらに知見を集積し、サブページとして「八王子城 詰城北尾根の石垣・石塁群(仮称)」を展開する予定です。
ご期待下さい。

今回の探訪踏査を動画にまとめました。
視聴は右_(YouTube:5分) 八王子城 詰城北尾根




■ 八王子城と滝山城がコラボして写真展を開催

高尾599ミュージアム特別展示室にて開催

今年も、八王子城と滝山城がコラボして写真展を開催しました。この特別企画は高尾599サイドの発案、構成によるものです。
期間は18/11/05〜11/11日までの一週間で行われました。
八王子城側のものは21点展示で、いずれも当HP編集局(Fuma Project)が提供した写真データの中から、高尾599サイドがセレクトし、A1版縦型の大型パネルとして作成したものです。
今年も新たに若干追加したものもあり、とても豪華なものとなり感謝しています。
最終日の11/11(日)にはNPO八王子城跡三ッ鱗会メンバーによる甲冑着装体験もありました(二項目に記載)。


(今回も2Fの特別展示室に誘導する案内表示が準備されていました)


(これが八王子城の展示区画で衝立の奥が滝山城の区画です)


(まだまだ表現しきれていない部分もあり、それは来年以降の課題といたします)


八王子城跡三ッ鱗会による甲冑着装体験

次は写真展開最終日の11/11(日)に、NPO八王子城跡三ッ鱗会メンバーによって行われた甲冑着装体験です。
開始予定のAM11:00より前の10時を過ぎたころから、甲冑を着たいという方が次々と現れました。
今年は女性の方で甲冑を着たいという方が多かったです。この甲冑は鉄板製でかなりずっしりと肩にくい込む重さがあります。
それでも、ものともせずに着て楽しんでもらえたようです。
引きも切らず、おおよそ40組の方々に楽しんでいただけたでしょうか。


(パネルは八王子城隊美女兵士、KIZさん、WTBさん。599館長サイドが当方の展示会データを大胆にカットして表示したものです)


(朝一番で、時間早いけれどいいですか、と。最後は親子甲冑姿で館外を一回り)


(こちらのカップルは女性が甲冑で男性が陣羽織(通常女性)よくお似合い)


(タイからホームスティさせている若者に日本文化を体験させたいとのこと)


(大家族?、いえいえ二家族です。とこんな感じで大忙しの1日でした)





■ 台風24号、八王子城を襲撃

八王子市で最大瞬間風速45.6メートルを観測した台風24号は、八王子城にも大きな爪痕を残しました(撮影:18/10/3)。

八王子城内の要害部(山頂部)にある八王子神社は倒木の太い幹が屋根に突き刺さるなど大きな被害にみまわれました。
また、駐車場からジオラマ(立体模型)広場に進む道も、10/3現在、倒木のため通行禁止になっています。


(山頂直下にある八王子神社。倒木に覆われ太い幹が屋根を突き破っています)

     

赤い矢印で示した上側に、屋根を突き破り神社にくい込んだ太い幹が認められます。
不幸中、さいわいなことにここに見えるのは覆い社です。いわば雨よけのカバーです。
本殿は水色の矢印で示した、覆い社の中にあります。
本殿は、戦国の落城と、江戸前期の落雷による焼失ののち、江戸時代末期に建てられたとされるものです。
多くの方はこの二重構造を知らず、外側の覆い社を八王子神社と思い込んで参拝して帰って行くのが現状です。



(屋根を突き破った太い幹の向こうには空が見えます)

これは覆い社の内側に入りこんで撮影したものです。
太い幹が目の前を横切るように突き抜けています。
右側の少し上には、やや細めの幹による穴も認められます。



(赤い矢印が覆い社の屋根を貫通した幹の先端部です)

     

カギ型の水色の線で示したものが本殿で、江戸時代末期に建てられたとされるもので、屋根は桧皮葺き(ひわだぶき)です。
赤矢印の幹が本殿に突き刺さらなくて良かったです。


そんな中でもアサギマダラが飛んで・・・・・

神社から少し下、九合目あたりでアサギマダラのつがいが飛んでいました。
八王子城山はアサギマダラの聖地です。その幼虫が好んで食べる鬼女蘭(キジョラン)が城山の下から上まで、いたるところで自生しています。
アサギマダラは春にここで飛び交い、真夏は暑さを避け山梨の御坂山地などの涼しいところに移動し、この時期に裏高尾から小仏城山、そしてこの八王子城山あたりに戻ってきます。


(自生するノアザミからいっぱい蜜を吸うアサギマダラのつがい)

こうして彼らは養分をため込み、11月はじめ頃までに鬼女蘭の葉の裏側に卵を産み付け、南方(沖縄や台湾か)へと渡っていきます。
産み付けられた卵は翌年、正月を過ぎるころから幼虫になり、八王子城山にふんだんに自生する鬼女蘭の葉をたらふく食べ、さなぎになります。
やがて春になると蝶にかえり、親と同じことを繰り返します。
だれが教えたわけでもないのに、かれらのDNAに刷り込まれているのでしょうか。




■ 八王子城みらいシンポジウム

八王子市文化財課の主催で「八王子城みらいシンポジウム」〜落城から次世代への継承を考える〜が開催されました(18/6/23)。
これは八王子城の遺産を次世代へ継承し、みらいにつなげることを考えるためのきっかけにしようと企画されたものです。
今回は小田原を本城とする北條三兄弟のよしみで、姉妹都市の盟約を結んだ三都市からそれぞれパネリストをまねいて、シンポジウムとして行われました。
コーディネーターは
 相原さま(八王子市文化財保護審議会)
パネリストは
 佐々木さま(小田原市学芸員)
 石塚さま(寄居町学芸員)
 新藤さま(八王子城の発掘・整備にたずさわった)

の三名の先生方で、熱心な意見交換がなされました。
会場は八王子城跡ガイダンス施設で、聴講は80名を越す盛況でした。

座長から、従来は文化財は保護されるものだとされてきたが、今後は街づくりのファクターとして、活用の仕方を考える必要があるとの提示がなされた。


(江戸期の天守をもった城に対し、昨今は戦国など中世の山城に興味がわいている)

それにしたがい次の観点から議論がすすめられた。

[1] 中世の城館としての各城の考え方
[2] 各城での最近の調査・発掘の現状
[3] 未来に引き継いでいく提言


[1] 中世の城館としての各城の考え方

小田原の場合、今見えているのは江戸期のもの、しかし・・・・・

小田原は皆さん見ているのは江戸初期(1633年)構築のもの。
新幹線をはさんで山側に北條時代の遺構がある。最近は総構えといわれる戦国の城館の外周の整備が進められている。
また、秀吉が創った石垣山一夜城がある(戦国の城)。
さらに、江戸城の石垣用に提供した石を切り出した石丁場がある。
以上、小田原で最近ではこの四城の遺構をご案内させていただいている。


(早雲公が駅裏に寂しくではなくて、こちらが戦国北條の場所だとの主張です)

鉢形城は河岸段丘上にある平山城

1400年代から上野(こうずけ)と武蔵の中間に位置するということで、当初は軍事的な出先として使用されていた。
そののち藤田氏の支配下に入り鉢形城となる。戦国時代を通してだんだんと変わってきている。
八王子城とは少しタイプが違っている。

八王子城は戦国時代の末期でありながら大規模な山城

氏照がなぜこの地を選んだかについては推測しかないが、彼の思い入れのようなものがあったのではないか。
御主殿の背後に比高差200mの要害部があり、少ない人数で戦える城を考えた。
八王子城の発掘に進展を及ぼしたのは、当時、波多野重雄さんがその公約のひとつとして「歴史とロマン」をかかげ市長になったのが大きい。
氏は1990年、落城後400年を記念してイベントやりたいと考えた。
各分野の規制があった中で奔走し、少しばかりの突破口を見つけて、まず現在の御主殿の虎口の発掘調査から開始をした。


[2] 各城での最近の調査・発掘の現状

小田原城、常識を超えた庭園跡

御用米曲輪から発掘された庭園跡は日本型庭園にはない、八王子城で出てきたものとは全く異質のもの。氏政の時代に作られた。
加工したタイル状の石をカラフルに敷き詰めたもの。
北條としてこれだけ独創の文化を作り上げていたことに意義がある。
八王子の陶磁器類の出土はすごいものがあり小田原はとても及ばない。鉢形はもっとちびっとです。
八王子の場合は落城当時のまま封印されたわけで、これが北條の文化のレベルと考えると小田原でもそのようなものが出てくるかもしれない。

鉢形城、石垣というより石積み

主郭はまだ調査していない。
河原石の使用を主体としたものを含め3タイプの石積みがあり、その中のひとつは穴太(あのう)積みといわれるものがある。
鉢形城は川に面した河岸段丘上に作られているという意味で滝山城に似ている。

八王子城の曳橋の形状については陳謝しかない

曳橋は、当時の波多野市長の整備構想の一環として今のかたちがある。
当初から復元でも何でもないと言っていたが、青森ヒバの木で立派に作ったものだから復元に見えるといわれた。
城郭の専門家からは、曳橋とは簡単に引いて落とせるようなものを曳橋という、との批判をいただいた。


(400年事業で完成した橋(曳橋)と当時の波多野市長=甲冑は自前で200万円)

(新藤氏は)今まで多くの遺構の発掘にかかわったが、八王子城の池遺構の出現は、その中で最も感動したものである。
ただし、山側の方はまだ全体が発掘しきれていない。
山側の部分は林野庁のもので、現在、文化庁の補助金で動いているので国のものを国が買うことはできない。それがネックとなっている。
中世から近世にかけて庭園が変化してきている中で、八王子城池遺構はそれを解明するための重要なものである。


(新藤氏から後輩に期待したいという熱いメッセージが述べられた)


[3] 未来に引き継いでいく提言

小田原は2年前にリニューアルした

リニューアル後、来場者が増えたがそのあと減ってきている。
この後、このような機会を持つとか、人に来てもらう手だてを打っていく必要がある。

鉢形城ではボランティア案内人という制度がある

ボランティア案内人という制度があり月に1回の定例会をやっている。
ボランティアにお願いしながら江戸期に描かれた鉢形城絵図の中に、鉢形八薬師の場所の特定などやっていただく中で、民の力を感じた。
さらにこの三兄弟の中で力を合わせてやっていければいい。

八王子城、400年事業から現在、未来へ

平成2年(1990年)には当時の波多野市長のもと記念事業が賑々しく行われた。
武者の甲冑衣装は高津装飾(専門の会社)に丸投げしたりしながらも成功裏に終了した。


(1990年には関係する城の所在都市から多くの方々が参集してくれました)

しかし、これは八王子市行政の中で継続的な「時代祭り」として行われることにはならなかった。
(もし、継続していれば小田原、寄居に次ぐ、「第30回八王子北条祭り」になっていたわけです、筆者付記)
民の力の活用、ということになるのか、ボランティアガイドの仕組みがH.21年からスタートしている。
また、「北条氏照まつり」が8年前から地元自治会連合会の手で始まり、武者行列などで大きな成果をあげている。
遺構を次世代に継承することについては、市民ひとりひとりがこの歴史にふれていただき、今回のようなさまざまな機会を通じて盛り上げていく必要がある。


以上です。司会の先生、パネリストの先生方、有意義な討議、どうもありがとうございました。

1990年の400年記念事業当時の写真は、八王子城跡ガイドの藤本氏から提供していただいたものです。

シンポジウムの前に石森八王子市長をはじめとして多数のご参加のもと、御主殿曲輪で行われた「開会セレモニー」の記事は、NPO三ッ鱗会のホームページに掲載してあります。
開会セレモニーの記事(リンク)は ここをクリック





■ 加藤哲先生の八王子城関連二つの講演開催

1週間の間に期せずして加藤哲(あきら)先生を講師にした八王子城に関連する二つの講演会が開催されました。
[18/6/10]
NPO八王子城跡三ッ鱗会主催による「氏照二城」からみる戦国社会の変容〜滝山城から八王子城への移転〜
[18/6/17]
八王子市文化財課主催による〜八王子の戦国時代を中心に〜豊臣の「平和」と八王子城の運命

いずれもパワーポントを使用した解説で、出てくる図も同じものがあったりして、内容としても重複したところも多くありました。
そんな中で今後八王子城を考える上で肝要なポイントを次の5つの点に絞って報告いたします。

[1] 氏照の養子入り先は大石定久ではなく綱周(つなちか)
[2] 氏照が滝山から八王子城に居城を移した動機
[3] 八王子城の築城開始を天正10年以降とする根拠
[4] 八王子城の構造、通説とは逆の西向きの城構え
[5] 豊臣との対決は名胡桃城問題ではない

6/10は今年早めの台風6号が沖縄あたりを通過中という強い雨も予想された中、山深い城跡ガイダンス施設まで多くの方々が聴講に来て(85名ほど)立ち見が出るほどの盛況でした。


(加藤先生は文書(もんじょ)に基づいた明快な解説が特長です)


氏照の養子入り先は大石定久ではなく綱周(つなちか)

氏照は本城小田原の三代目当主氏康の三男として生まれ、そののち武蔵国由井領(八王子市)に養子入りしました。
ただし、養子先が定久とするのは通説で、正しくは綱周(つなちか)です。最近、八王子市が作っている文書もそうなっています。


(氏照の八王子での居城の遷移。国土地理院地図より)

講演をきくかぎり、先生は養子入り先が浄福寺(由井)城だというのを明確にしたがらないようです。
浄福寺城は研ぎ澄まされた山城です。ここで氏照が生活し、正面の深沢山(八王子城山)を仰ぎ見て対峙し、山頂部には水が出ることを知り、いつかここにと思い描いたとしても不思議ではありません(筆者付記)。


氏照が滝山から八王子城に居城を移した動機

1569年、武田信玄は秋川、多摩地区を経由し小田原侵攻。その途中で滝山城を攻撃。
このとき武田軍に滝山城の二の丸手前まで攻め上げられ、それを反省としてより強固な城、すなわち八王子城の築城を考えたとなるのですが、先生はこれは江戸時代の「甲陽軍鑑」に書かれた通説で完全には信用できない、としています。
同じころ小仏峠をこえて八王子に入った武田の別動隊に攻撃され、これも移城の動機のひとつとされます(廿里の戦い)。
しかし、実際の八王子城への移城は10年以上ものちのことであり、つまるところ、それは対織田、そののちは対豊臣と考えるのが妥当です。


八王子城の築城開始を天正10年以降とする根拠

1578年、織田と北條の同盟交渉のため、氏政の名代と氏照の名代(間宮綱信)が京都で信長と面談。京都見物後、安土城も見て帰るようにと歓待された。
数年ののち、八王子城築城に関して間宮綱信も含む三人の普請奉行に対し、氏照が工事に急いで取りかかるようにとの指示出しをした。
現在、八王子城の築城開始を天正10年以降とする根拠はすべてこのときの文書に依拠しています。
八王子市もすべてこの説にもとづいて記載しています。
この文書は江戸期に作成された写文であること、年が明記されていなくて氏照の花押の特徴から天正10年(1582年)と推定しています。


(この花押の赤いワッカの部分の特徴から、文書が天正10年(1582年)と推定したという)


八王子城の構造、通説とは逆の西向きの城構え

先生は八王子城は山梨側から攻めてくる敵に対して尾根崖(壁)で防御する西向きの城だとして下の図を示しています。

確かに日本地図的には敵はいずれも西方向に位置しています。
ですが、この城が東側からの攻めを重視した構造であることの証拠は多く存在します。
まず先生がこの城が5つの地区から構成されていることを、あえて4つの地区から構成されているとし、下のD御霊谷(ごれいや)地区を除外しています。
@城主、北条氏照の御主殿を中心とした居館地区
A山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる要害地区
B家臣団の居住区である根小屋地区
C城山川の東南部に連なる尾根の太鼓曲輪地区
D太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷地区

[はたして西向きか?]
次は先生の西向き説に対して、西域は背後の防衛構造であるとする筆者の反論です。
御主殿曲輪は東側にせり出し、武蔵野台地を睥睨する構造であること。
北堀川(=空掘、花籠沢という人もいる)と大手門前の空掘も、それに依拠する土塁も、東側からの攻めに対応している。
虎口・石段や城山川を堀に見たてた曳橋構造もしかり、馬蹄段等々枚挙にいとまがありません。


(講演で使用されたものと同じ形に、当HP編集局(Fuma Project)が作成した)

[背後の西側は自然の尾根壁にゆだねた]
この城の城域の西端は詰の城(通称)から派生する尾根筋です。
山頂曲輪(本丸跡)の背後の防御は、この自然の構造物である尾根壁にゆだねた(我々は西向き説を取らないのであえて背後という表現を使いました)。

[掘削して出てきたモノは効率的に再利用した]
空掘を掘れば大量の土が出てきます。その出た土を有効に再利用した結果、いずれも、すぐ近くには土塁が構築されています。
岩が主体の尾根を掘削して堀切を作れば大量の石が出てきます。その近くには石材を必要とした石垣、石塁、石積みがあります。
例としてあげれば、西端に位置する大堀切からは大量の石材が出たわけです。近くに捨てた形跡はありません。当然、詰の城に連なる尾根筋に積み上げたと考えられます。
これが詰の城を頂点とし、万里の長城を想起させるような、連綿と連なる石塁です。

[さらに外周に存在する尾根壁]
詰の城の尾根筋には、もう一回り外側の尾根筋(壁)があります。これはもう手を加える必要もなく天然の尾根壁を形成しています。
この中心に位置するのが富士見台です。
八王子城跡が国の史跡に指定されている領域の西端は、くしくも、この富士見台から派生する尾根筋(北高尾山稜)です。
昭和二十年代、国の史跡として申請された方々は詰の城の奥の、一回り大きい要害壁を八王子城の領域と考えて、史跡申請したのかもしれません。

八王子城は西向きとの先生のお考えに対して、西側は背後との立場から筆者が長々と付記してしまいました。


豊臣との対決は名胡桃城問題ではない

これは、6/17のクリエイトホールで行われた講演の方でふれた話題です。
秀吉が関東の北條討伐に踏み切った理由として、通説では北條が名胡桃城を奪取したことが「関東惣無事令」違反として挙げられているが、そうではない。
氏政が上洛しないこと(遅れたこと)が秀吉の怒りの原因であるとしています。

本当に丁寧な解説、どうもありがとうございました。





■ 視覚障碍者と山城を体験する

ハンディを持つ人たちを支えながら自然を愛するというグループが、今年もまたやってきてくれました(撮影:18/3/31)。
東京を中心として結集した、視覚障碍(しょうがい)者と一緒に山歩きを楽しむ会「六つ星山の会」です(ご了解の上、名称を記載しています)。
障碍者10名、サポート29名の総勢39名で、去年よりはだいぶ人数がふえました。
管理棟前で小休止したり多少のレクチャーのあと、大手道を通り城山川の谷あいの風を感じながら、戦国の石段を踏みしめ、虎口から石段を登り御主殿地区へ向かいました。


(満開のサクラ、管理棟前に集まって、これ以上はないという天気です)


(ガイドのKRYさんがベネチア製のレースグラスを触って体感できるようにと作ってきました)


(今回はサポートの方の人数も多く交代が楽なようです)


(野面積みの石垣にさわってみて、戦国の息遣いはどうでしょうか)


(戦国の石段を踏みしめて登ってみていかがでしたか。これは半分のA班です)


(御主殿の土塁に登り、戦国の歴史の重さを感じてもらえたでしょうか)


(土塁の下には、B班がちょうど発掘された石垣の説明を受けています)

この地区で御主殿曲輪の遺構を直接踏みしめて、戦国の居館の跡などを確認していただきました。
去年はこのあと金子丸に抜けて本丸(要害地区)まで登ったのですが、今年は初級の方も含まれるということで、本丸はやめて、氏照公の墓を見学するというコースでした。
障碍者の支援をしているボランティアの方々のご努力と、それに応えて前に進む障碍者の方々のチームプレーに感動した1日となりました。




■ アド街ック天国城跡ロケ奮戦記

テレビ東京「アド街ック天国」のロケが八王子城跡内で行われました(撮影:18/3/11)。
主として次の3つの地点で撮影が行われました。
 @ 御主殿虎口・石段
 A 馬蹄段
 B 9合目の上、展望スポット
快晴の中、NPO三ッ鱗会の皆さんの協力により、およそ3時間弱の撮影時間で、無事終了しました。
八王子城を真正面から取り組んだもので、大変意義深いものであったことは以下に掲載した写真からも読み取っていだだけると思います。
撮影の展開として、武者のガイドが案内を始めるというものですが、ここに来れば武者の格好をしたガイドがいるわけではありません。
あしからず・・・・・


(まずスタートは城跡管理棟です。出てきた武者ガイドはKNKさんです)


(少し歩き始めたらピンマイクの調子がイマイチで、しばし調整です)


(スタートしてしばらく歩いてここは大手道です。@の御主殿は正面方向です)


(御主殿に取り付く虎口(入り口のこと)です)


(虎口から石段を仰ぎ見ると城内に待機していた味方の軍勢が現れました)


(精鋭の軍勢が冠木門の前に結集しました)


(これから集合写真的場面ですが、みんな立ち位置をよく考えてよ)


(冠木門をバックにして、やはりここがひとつの見せ場です)


(御主殿曲輪に決起した、我が北条氏照隊の面々です)


(次にAの馬蹄段に向かいます。山道の行軍も戦国にあっては必定です)


(御主殿台所門から金子曲輪に向かう山道を登り切りました)


(ここがA馬蹄段です。戦国の人たちもこのように攻め上げる敵軍を迎え撃ったかな)


(Bの撮影スポット、9合目から距離にして100mほど進んだ展望地点です)


(関東平野のすべてを我がものにしたように感じる光景です。氏照公もこれに魅せられた!!)


フォトフォルダーは右をクリック アド街ック天国




■ 城跡、今年最初の大雪です

奥深い八王子城跡ですが、今年最初の大雪です(撮影:18/1/26)。
1/22日、昼ごろから降り始めた雪ですがその日の日付が変わる頃まで降り続け、市文化財課の判断によりガイド活動が1週間ほど休止しています。
どんな感じかな、写真でも撮ろうかと来てみたらこんなもんです。
とても1週間で休止が解けそうにありません。
筆者はこういう景色を見るとモティベーションが上がるのですが、一般の方を迎えるとなると話は別です。
さあ、どうなることやら。
天候には勝てないということです。


(城跡管理棟です。ここのガイドの詰所が閉鎖されています)


(御主殿曲輪冠木門です。いい景色なんだけれどご案内となるとやっぱり無理ですね)


(降雪後5日も経っているのにこの状態です)

[追記] 1月からの積雪はまだ解けません

1/22日に降った雪はまだ解けなくて、2/2日にさらに降雪があり、現在、アイスバーンの状態でまだ残っています(撮影:18/2/8)。
H.21年度から始まったボランティアガイドですが、今までも冬の降雪でときどきガイド活動が休止になることがあったのですが、こんなに長い間の活動休止はいまだかつてないことです。
今のところ、2/12日までの休止が決まっています。


(大手門前の広場はいまだに雪がガチガチでアイスバーン状態です)




■ 2018年の初日の出です

2018年の八王子城山の初日の出です(18/1/1)。
今年もまた去年と同様おだやかな新年です。
AM6時少し過ぎ、城跡駐車場にはすでに多くの車が止まっていて、ゆっくりと靴を履きかえたりしながら他のひとのあとを追うようにスタートしました。
懐中電灯で照らすと登り慣れたいつもの道です。
金子曲輪を少し登ったあたりでは空がかなり白んできて関東平野を見渡すことができました。
表示の「9合目」から200mくらい登った場所が絶好の初日の出スポットです。
今年も多くの人々が待ち構えていました。


(9合目の表示の上の見晴らし道から今年の初日の出です)


(松木曲輪に回ったら、ここも人がいっぱい。中には宴会の準備をしている人も)



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