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講演「滝山城から八王子城へ 〜城郭・町・戦争〜」を開催


八王子市文化財保護審議会 副会長 加藤 哲(あきら)先生の講演会が催されました(撮影:21/12/4)。
主催は八王子市生涯学習センターで、市文化財課共催、NPO三ッ鱗会が協力したものです。
40名の募集人員に対し、はるかに上回る応募があり、急遽、当選者を大幅に増やしたものの、それでも多くの応募者がもれてしまったということでした。





次に公演の骨子を列記します。

[1] 1500年代初頭における現八王子市の領国支配
[2] のちの氏照の養子入先である大石家の八王子進出と居城
[3] 浄福寺城と滝山城の関係、今年、滝山築城500年は本当か
[4] 浄福寺城と滝山城の城下町形成の類似性、大久保長安の八王子との乖離
[5] 滝山城から八王子城への移転とその背景


(講演の休憩の合間に、撮影をお願いして気軽に応えていただきました)


1500年代初頭における現八王子市の領国支配

1504年まで現八王子市を支配していたのは長井氏。居城は椚田城。
(現在、椚田城はむしろ初沢城として名前が通っています)
この年に扇谷上杉方の椚田城攻略によって、城主 長井氏は滅亡。


のちの氏照の養子入先である大石家の八王子進出と居城

椚田城長井氏が滅亡後(1504年)、これを山内上杉が接収。
それまで大石家は現埼玉県志木市柏城を居城としていた。
大石家は山内上杉の重臣であったことから八王子に進出、のちに由井に移り浄福寺城(由井城)を居城とした。


浄福寺城と滝山城の関係、今年、滝山築城500年は本当か

浄福寺城に関する斎藤慎一先生の精力的な研究により、1563年「由井領主氏照」の北条家印判状の存在により、滝山城移城はそのあとであったように見える。
ということは、今年、滝山築城500年説の拠り所は弱い。
講師の加藤先生は、浄福寺城は本城で、滝山城は支城として多摩川渡河地点の抑えとして、1563年以前もすでに存在していた可能性を指摘。


浄福寺城と滝山城の城下町形成の類似性、大久保長安の八王子との乖離

浄福寺城では城郭に隣接して重臣たちを置き、さらに刀鍛冶(下原刀鍛刀の地)など直属職人の町屋を置いた。
さらに、中世の城下町はNHK大河ドラマに出てくる、岐阜城下や安土城下のようなものではなく、農村の小集落である。
この構造は滝山城に移城したときも同じような構成となった。
ちなみに、大久保長安による八王子の町づくりは全く異次元の桁外れのものである。



滝山城から八王子城への移転とその背景

加藤先生は、氏照が滝山城から八王子城に居城を移した背景として以下の3点をあげています。
 @北条家ナンバー2の居館にふさわしい威儀と設備: 御主殿、会所、庭園。
 A少人数で防衛可能な城館: 滝山城を守るには多くの城兵が必要。
 B甲武国境の防衛強化。

これらを背景に、北条氏照公が怒涛の勢いで構築した、急峻で広大な、我が国における最後の大規模山城が八王子城です(筆者付記)。


(パワーポイントによる多くのスライドを使った分かりやすい解説でした)

本当に素晴らしい講演、どうもありがとうございました。




八王子城跡ガイド活動が再開しました

2020年2月から停止していましたガイド活動が再開しました(撮影:21/11/1)。
新型コロナの感染対策を講じた上でのご案内となります。
ガイドしてもらう方も、ガイドする方も、いささか窮屈な中でのスタートです。
さあ、ガイドの皆さん、1年9ケ月ぶりのガイド活動の開始です。


(城跡管理棟の前で、月曜日メンバーもそろい、いざ出陣です)


(ジオラマ広場の東側斜面、三ッ鱗の植栽も歓迎しています)


(ちょっと本丸方面に足を伸ばすと神楽殿が解体作業の真っ最中でした)


(松木曲輪は予想外の賑わい、ガイド活動再開を知って、では無いです)

休止期間中に通行不能になっていたルートが開通

コロナ禍によるガイド活動の休止期間が1年9ケ月に及ぶ中で、御主殿台所門跡〜金子曲輪のショートカットコースですっかり笹竹が茂り、藪化して通行不能になっていました。
それがNPO三ッ鱗会MTDさんの呼びかけで集まったメンバーで綺麗に刈払われ、このルートが無事開通しました。
作業は10/15日、メンバーは三ッ鱗会、八王子城跡ガイドおよび八王子城を愛する方、計7名でした。
参加された皆さん、本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。



(水色の曲線が本丸方面(山頂部)へのショートカットコース)


(ここが台所門跡からのショートカットコースの始まりです)


(本丸への登山道への取りつき部、ショートカットコースの終点です)


(参加された皆さんです。[三ッ鱗会HP関連記事リンク:クリック]

新型コロナ禍が降って湧いてから1年9ケ月、ガイド活動が前面休止となる非日常が続きました。
しかし、ここに来てようやくトンネルの先に光明が見え始めたでしょうか。
ガイド活動ももそろりそろりと動きだしました。何気ない日常に感謝です。




いい情報&悪い情報 (Good News and Bad News)

最近の八王子城跡の「いい情報と悪い情報」を併記しました(撮影:21/9/10)。
新型コロナ禍で公式ガイドの活動休止も1年半を越えました。
その中で城跡の、特にエントランス部分は見てくれが大きく変わっています。
今回はその中でも紹介しておきたい Good News and Bad News を両方併せて掲載します。

【Good News】本丸への登山道が整備されました

本丸への登山道は、いわば山頂部にある八王子神社への表参道です。
ですが今までは自然にまかせた木の根道で、なかなか登りづらく、下りはなお危険という感じでした。
それが今年の5月から作業が進行し、8月になると見違えるほどの、スムーズで安全な登山道に変身しました。
しかも高尾山などでよく見られる箱型、階段状の板張り階段ではなく、踏み面は自然石と土を固め込んだ足になじむ感触です。
八王子神社から委託されて作業にあたったご兄弟の、人間味が感じられる仕上がりとなりました。


(一の鳥居、赤枠が整備された階段、ここから山頂部までずーっと手が入りました)


(馬蹄段の最下段の上、木の根の上下幅が広く、足掛けが難渋の場所でした)


(6合目の上、危険な箇所がうまく整備。緑枠に作り手の思いが感じられます)


(台風19号の崩落箇所を守るように防護柵を回してくれました)

【Bad News】ナラ枯れが相模の国から武蔵の国に侵襲

最近の八王子城で目につくのは、城跡に近づくと紅葉(黄葉)かと間違うようなナラ枯れの侵襲です。広葉の大木をねらったものです。
これを城跡エントランス部分であまりに拙速に樹木切を行ったことの副反応と思う方もいるでしょう。
しかし、じつは「ナラ枯れ」という樹木の伝染病です。
西日本から伝播し去年ころ相模原あたりに到達し、今年は多摩丘陵を越え、現在、武蔵の国に侵襲している状況です。
これは病害虫であるカシノナガキクイムシがナラ類の広葉樹に穿入し、穴を空け食い荒らし、樹木が水を吸い上げる機能を阻害して枯死させるものです。



(城跡ガイダンス施設越しに見るナラ枯れの拡大)


(ガイダンス方面を俯瞰。御主殿西尾根 肩の曲輪[解説:クリック]から)


(幹に直径約1〜2mmの穴がたくさん空いている。赤枠は部分拡大。根元に白い木屑)

ナラ枯れは現在の技術では対策のしようがないということです。
城跡管理人の方たちも、見守るしかないというのが現状です。




サツキの三ッ鱗家紋植栽が初めて開花

昨年の秋に植えたサツキによる三ッ鱗家紋の植栽が初めて開花しました(撮影:21/5/29)。
これは東京都農業振興事務所の苗木供給事業に応募していただいた苗木の中から、NPO三ッ鱗会に割り当てしてもらったものを三ッ鱗の家紋模様に植えたものです。
今年になってこの一カ月間くらい、もっともよく開花する時を見逃さないため頻繁に通い詰め撮影した結果が下の写真です。
撮った写真を前後の日付のものと見比べてみてもこれが最高のもので、花がそろっていなくてイマイチでした。
ちなみに、昨年苗木の余った分をエイーッと植えたものが三ッ鱗家紋をはずれた下の一本の列植え(ライン)です。
これは比較的よく咲いています。

思えば、当初三ッ鱗会メンバーが中心になって植えたものはもっと余裕をもってまばらに植わっていました。
それが苗木が余ったということで植え増しし今の状態になったようです。
すぐに翌年から素晴らしいサツキの開花を見たいという、はやる気持ちが裏目に出たようですね。


(家紋の隙間と回りを囲む茶色のビニールは養生シート。雑草よけと保水?のため)


(三ッ鱗会メンバーによる当初の植え付け。発案者は赤いヤッケのMZS氏。2020/10/27)


(苗木が余ったようで委託された業者が濃密に植え込み。20/11/07)


(さらに文化財課メンバーが養生シートを回りに敷設。20/11/24)

滝山城とサクラの植え込み

滝山城は八王子市内ではそこそこ有名なサクラの名所です。
それで思い出したのは、長く文化財課で勤務され現在はOBのSND氏からかつて聞いた言葉です。
「滝山城に桜を植えたとき、都から苗木がたくさんきて、もったいないから全部植えた。それで密植でひとつひとつが大きくならないんだよ」と語っていました。
そういえば滝山城は大きく豊満に咲きそろうサクラとはちょっと違う気がします。
今回も応募し都からいただいた苗木が多かったので、と同じことをやっていますかね。
ただサツキは短期で修正がききます。
今が勝負で、来年の花芽が付く前に刈り込みを行えば、来年こそは素晴らしいピンクの三ッ鱗家紋のサツキの植栽が楽しめるはずです。


講演「滝山城から八王子城へ 〜城郭・町・戦争〜」を開催


八王子市文化財保護審議会 副会長 加藤 哲(あきら)先生の講演会が催されました(撮影:21/12/4)。
主催は八王子市生涯学習センターで、市文化財課共催、NPO三ッ鱗会が協力したものです。
40名の募集人員に対し、はるかに上回る応募があり、急遽、当選者を大幅に増やしたものの、それでも多くの応募者がもれてしまったということでした。





次に公演の骨子を列記します。

[1] 1500年代初頭における現八王子市の領国支配
[2] のちの氏照の養子入先である大石家の八王子進出と居城
[3] 浄福寺城と滝山城の関係、今年、滝山築城500年は本当か
[4] 浄福寺城と滝山城の城下町形成の類似性、大久保長安の八王子との乖離
[5] 滝山城から八王子城への移転とその背景


(講演の休憩の合間に、撮影をお願いして気軽に応えていただきました)


1500年代初頭における現八王子市の領国支配

1504年まで現八王子市を支配していたのは長井氏。居城は椚田城。
(現在、椚田城はむしろ初沢城として名前が通っています)
この年に扇谷上杉方の椚田城攻略によって、城主 長井氏は滅亡。


のちの氏照の養子入先である大石家の八王子進出と居城

椚田城長井氏が滅亡後(1504年)、これを山内上杉が接収。
それまで大石家は現埼玉県志木市柏城を居城としていた。
大石家は山内上杉の重臣であったことから八王子に進出、のちに由井に移り浄福寺城(由井城)を居城とした。


浄福寺城と滝山城の関係、今年、滝山築城500年は本当か

浄福寺城に関する斎藤慎一先生の精力的な研究により、1563年「由井領主氏照」の北条家印判状の存在により、滝山城移城はそのあとであったように見える。
ということは、今年、滝山築城500年説の拠り所は弱い。
講師の加藤先生は、浄福寺城は本城で、滝山城は支城として多摩川渡河地点の抑えとして、1563年以前もすでに存在していた可能性を指摘。


浄福寺城と滝山城の城下町形成の類似性、大久保長安の八王子との乖離

浄福寺城では城郭に隣接して重臣たちを置き、さらに刀鍛冶(下原刀鍛刀の地)など直属職人の町屋を置いた。
さらに、中世の城下町はNHK大河ドラマに出てくる、岐阜城下や安土城下のようなものではなく、農村の小集落である。
この構造は滝山城に移城したときも同じような構成となった。
ちなみに、大久保長安による八王子の町づくりは全く異次元の桁外れのものである。



滝山城から八王子城への移転とその背景

加藤先生は、氏照が滝山城から八王子城に居城を移した背景として以下の3点をあげています。
 @北条家ナンバー2の居館にふさわしい威儀と設備: 御主殿、会所、庭園。
 A少人数で防衛可能な城館: 滝山城を守るには多くの城兵が必要。
 B甲武国境の防衛強化。

これらを背景に、北条氏照公が怒涛の勢いで構築した、急峻で広大な、我が国における最後の大規模山城が八王子城です(筆者付記)。


(パワーポイントによる多くのスライドを使った分かりやすい解説でした)

本当に素晴らしい講演、どうもありがとうございました。




八王子城跡ガイド活動が再開しました

2020年2月から停止していましたガイド活動が再開しました(撮影:21/11/1)。
新型コロナの感染対策を講じた上でのご案内となります。
ガイドしてもらう方も、ガイドする方も、いささか窮屈な中でのスタートです。
さあ、ガイドの皆さん、1年9ケ月ぶりのガイド活動の開始です。


(城跡管理棟の前で、月曜日メンバーもそろい、いざ出陣です)


(ジオラマ広場の東側斜面、三ッ鱗の植栽も歓迎しています)


(ちょっと本丸方面に足を伸ばすと神楽殿が解体作業の真っ最中でした)


(松木曲輪は予想外の賑わい、ガイド活動再開を知って、では無いです)

休止期間中に通行不能になっていたルートが開通

コロナ禍によるガイド活動の休止期間が1年9ケ月に及ぶ中で、御主殿台所門跡〜金子曲輪のショートカットコースですっかり笹竹が茂り、藪化して通行不能になっていました。
それがNPO三ッ鱗会MTDさんの呼びかけで集まったメンバーで綺麗に刈払われ、このルートが無事開通しました。
作業は10/15日、メンバーは三ッ鱗会、八王子城跡ガイドおよび八王子城を愛する方、計7名でした。
参加された皆さん、本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。



(水色の曲線が本丸方面(山頂部)へのショートカットコース)


(ここが台所門跡からのショートカットコースの始まりです)


(本丸への登山道への取りつき部、ショートカットコースの終点です)


(参加された皆さんです。[三ッ鱗会HP関連記事リンク:クリック]

新型コロナ禍が降って湧いてから1年9ケ月、ガイド活動が前面休止となる非日常が続きました。
しかし、ここに来てようやくトンネルの先に光明が見え始めたでしょうか。
ガイド活動ももそろりそろりと動きだしました。何気ない日常に感謝です。




いい情報&悪い情報 (Good News and Bad News)

最近の八王子城跡の「いい情報と悪い情報」を併記しました(撮影:21/9/10)。
新型コロナ禍で公式ガイドの活動休止も1年半を越えました。
その中で城跡の、特にエントランス部分は見てくれが大きく変わっています。
今回はその中でも紹介しておきたい Good News and Bad News を両方併せて掲載します。

【Good News】本丸への登山道が整備されました

本丸への登山道は、いわば山頂部にある八王子神社への表参道です。
ですが今までは自然にまかせた木の根道で、なかなか登りづらく、下りはなお危険という感じでした。
それが今年の5月から作業が進行し、8月になると見違えるほどの、スムーズで安全な登山道に変身しました。
しかも高尾山などでよく見られる箱型、階段状の板張り階段ではなく、踏み面は自然石と土を固め込んだ足になじむ感触です。
八王子神社から委託されて作業にあたったご兄弟の、人間味が感じられる仕上がりとなりました。


(一の鳥居、赤枠が整備された階段、ここから山頂部までずーっと手が入りました)


(馬蹄段の最下段の上、木の根の上下幅が広く、足掛けが難渋の場所でした)


(6合目の上、危険な箇所がうまく整備。緑枠に作り手の思いが感じられます)


(台風19号の崩落箇所を守るように防護柵を回してくれました)

【Bad News】ナラ枯れが相模の国から武蔵の国に侵襲

最近の八王子城で目につくのは、城跡に近づくと紅葉(黄葉)かと間違うようなナラ枯れの侵襲です。広葉の大木をねらったものです。
これを城跡エントランス部分であまりに拙速に樹木切を行ったことの副反応と思う方もいるでしょう。
しかし、じつは「ナラ枯れ」という樹木の伝染病です。
西日本から伝播し去年ころ相模原あたりに到達し、今年は多摩丘陵を越え、現在、武蔵の国に侵襲している状況です。
これは病害虫であるカシノナガキクイムシがナラ類の広葉樹に穿入し、穴を空け食い荒らし、樹木が水を吸い上げる機能を阻害して枯死させるものです。



(城跡ガイダンス施設越しに見るナラ枯れの拡大)


(ガイダンス方面を俯瞰。御主殿西尾根 肩の曲輪[解説:クリック]から)


(幹に直径約1〜2mmの穴がたくさん空いている。赤枠は部分拡大。根元に白い木屑)

ナラ枯れは現在の技術では対策のしようがないということです。
城跡管理人の方たちも、見守るしかないというのが現状です。




サツキの三ッ鱗家紋植栽が初めて開花

昨年の秋に植えたサツキによる三ッ鱗家紋の植栽が初めて開花しました(撮影:21/5/29)。
これは東京都農業振興事務所の苗木供給事業に応募していただいた苗木の中から、NPO三ッ鱗会に割り当てしてもらったものを三ッ鱗の家紋模様に植えたものです。
今年になってこの一カ月間くらい、もっともよく開花する時を見逃さないため頻繁に通い詰め撮影した結果が下の写真です。
撮った写真を前後の日付のものと見比べてみてもこれが最高のもので、花がそろっていなくてイマイチでした。
ちなみに、昨年苗木の余った分をエイーッと植えたものが三ッ鱗家紋をはずれた下の一本の列植え(ライン)です。
これは比較的よく咲いています。

思えば、当初三ッ鱗会メンバーが中心になって植えたものはもっと余裕をもってまばらに植わっていました。
それが苗木が余ったということで植え増しし今の状態になったようです。
すぐに翌年から素晴らしいサツキの開花を見たいという、はやる気持ちが裏目に出たようですね。


(家紋の隙間と回りを囲む茶色のビニールは養生シート。雑草よけと保水?のため)


(三ッ鱗会メンバーによる当初の植え付け。発案者は赤いヤッケのMZS氏。2020/10/27)


(苗木が余ったようで委託された業者が濃密に植え込み。20/11/07)


(さらに文化財課メンバーが養生シートを回りに敷設。20/11/24)

滝山城とサクラの植え込み

滝山城は八王子市内ではそこそこ有名なサクラの名所です。
それで思い出したのは、長く文化財課で勤務され現在はOBのSND氏からかつて聞いた言葉です。
「滝山城に桜を植えたとき、都から苗木がたくさんきて、もったいないから全部植えた。それで密植でひとつひとつが大きくならないんだよ」と語っていました。
そういえば滝山城は大きく豊満に咲きそろうサクラとはちょっと違う気がします。
今回も応募し都からいただいた苗木が多かったので、と同じことをやっていますかね。
ただサツキは短期で修正がききます。
今が勝負で、来年の花芽が付く前に刈り込みを行えば、来年こそは素晴らしいピンクの三ッ鱗家紋のサツキの植栽が楽しめるはずです。








八王子城の新たな鳥瞰図を作成しました

東京都教育委員会の「東京都の中世城館」をもとに新たな八王子城の鳥瞰図を作成しました(21/4/6)。
これは都教委が作成した元図に当ホームページ(HP)編集事務局が加筆・彩色し、城域内の名称を付記したものです。
八王子城を東南方面の上空から見たことを想定した構図です。
八王子城の鳥瞰図として今までは郷土史家が作成したものなど、作成者の思い入れが反映したディフォルメされたものとなっていました。
今回のものは、主峰(本丸)から派生する尾根の形状や高低、あるいは御主殿エリアへの手前の太鼓曲輪尾根のかぶり具合など、赤色立体地図から読み取れる形状と合致するリアルなものとなっています。


2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 鳥瞰図の表示(PDF)


全体像が国土地理院の赤色立体地図に一致

加筆・彩色する過程で国土地理院が提供している地図のサイトの、赤色立体地図にも照らし合わせながら描出したのですが、ほぼその地形図に合致するものとなっています。
都教委の元図は少なくとも2006年より前に作成されたものです。
当時はドローンもなく、赤色立体地図の技法もない時代です。国土地理院地図の標高線と実踏を基本にしていた時代に、その正確な全体像が描かれていることに、あらためて敬意の気持ちを感じます。


八王子城域を網羅して描出

今回の鳥瞰図は広大な八王子城域を網羅して描出しています。
すなわち、八王子城は「居館地区」、「要害地区」、「根小屋地区」、「太鼓曲輪地区」、「御霊谷地区」の5つで構成されますが、それらが広範に描かれています。
特に御霊谷の尾根筋などはどちらかというとなじみが薄く飛ばされることもあるのですが、この鳥瞰図では正面に置いて丁寧に描かれています。


曲輪群の描出はおびただしい数

八王子城は広大なエリアに、戦国期に作られた多数の掘平地(曲輪など)が点在します。この鳥瞰図ではそれらが丁寧に描かれています。
上図では主要な曲輪である御主殿曲輪と本丸は赤で、その他の曲輪は茶色で彩色しています。


堀切も多数存在します

八王子城には戦国当時のリアルな姿を残す堀切が多数存在します。これはベージュで彩色しています。
太鼓曲輪尾根上に5つ(と+α)が描かれています。
八王子城で最も大きな堀切は詰の城の陰にあるのですが、この図は東南方面の上空から見たという想定なので描かれていません。


多数の竪掘りを描出

都教委の元図では多数の竪掘りが書き込まれてれています。
スケール感からすると長さ(上下)はそれなりに、幅はかなり大きく描かれています。
上図ではHP事務局が実踏しても存在が確認できなかったものや自然地形と判別が難しいものは彩色せずそのままにしてあります。
人の手によるものと確認しできるものは緑色系のスジで彩色しています。
ですが彩色してあるものとて、のちの時代の林業作業の搬出路であった可能性は否定できません(いずれも上部には尾根の肩があり、下部には林道が通っていることです)。


この鳥瞰図の今後の展開

今回作成した鳥瞰図はここで初めて公開いたしました。
皆さんのご指摘・ご指導をいただきながらさらにブラッシュアップしていきたいと考えています。
そしてまずはこのHPの八王子城の概要のサブページなどへの挿入、すでに掲載している従来型の鳥瞰図との併記、あるいは差し替えなどを考えています。
また、チャンスがあれば印刷物としても載せていきたいと考えます。




2020年度発掘調査が御主殿西側で行われました

発掘終了後、埋め戻されて現在は次の写真のようになっています(撮影:2021/1/30)。
八王子城跡の御主殿地区の本格的な発掘調査は1992-93年(平成4-5年)に行われました。この中で大型建物遺構、すなわち御主殿と会所が出現しています。
その後、2013年(平成25年)7月に行われた発掘調査により、上記の2つの建物に隣接して新たに池跡が発掘されました。
今回の発掘調査はそれらに続くもので、2020年(令和2年)11月7日から12月1日まで、会所に隣接する西側で行われました。
その結果、大きな建物の存在を確証させる礎石が5ケ所出現しました。
今回の調査では建物遺構の終端まで発掘しているわけではないので、建物は今回の礎石のエリアをカバーした、さらに大きなものであることが容易に想像できます。
また、建物内の土間にあたる部分に炉状遺構が出現しています。これは火を使う設備で、発掘の中心となった八王子市文化財課の村山さんによれば、湯屋か台所だったのではないかとのことです。
ちなみに、戦国期の風呂はお湯につかるものではなく湯気で身体を蒸す、いわばサウナのようなものであったと考えられています。


(今回の発掘は会所に隣接した西側(写真の上方)で、@〜Bの区画で行われています)


(縄張り図:2006「東京都の中世城館」東京都教委から部分表示、当編集部が名称付記。
 今回の発掘はえんじ色枠の逆三角形のエリアです)


(430年間の中で堆積した土石(表土)を取り除く作業が続きます。撮影:2020/11/10)


(ここは区画@、今回は期待したような出土がなかったエリアです。20/11/16)


(区画A、撮影しているときに「礎石が出ました」との一声(白矢印)。感動の一瞬です。20/11/19)


(区画B。赤枠が戦国期落城時に焼かれた焼土の跡。食器遺物は高台(底)が上になってます。20/11/27)


(区画A.市民に向けた公開日です。急な状況の中でも興味のある方が来てくれました。20/11/28)


(同じく公開日。表示が小さいので写真の中に遺構名をふっておきました。20/11/28)


(小学生も見に来てくれました。この中で何人が戦国に興味を持ってくれるか楽しみです。20/12/1)


(埋め戻しの時がきました。養生シートをしっかりと敷いて将来のために保護します。20/12/2)

今回の発掘調査の意義。今後の展開


(埋め戻された発掘場所です。撮影:2021/1/30)

7年ぶりに行われる御主殿地区の発掘にあたっては、2018年(平成30年)2月にまとめられた「八王子城跡保存整備基本構想・基本計画書」(以下プランと略)に「御主殿西端の確認調査」が中期計画として盛り込まれており、さあ、いよいよ上の写真の青いスクリーンを掛けたエリアかと期待が盛り上がりました。
このエリアは、言い伝えとして八王子城主 北条氏照公の寝所があったとされています。
ところが始まった区画を見ればその手前の部分で、会所に隣接したエリアとわかり多少落胆したむきもあったようです。
しかし今回の作業の進行につれて、すでに記載したように大型建物の存在を確証させるような複数の礎石が出現したことは、当初の予想を越える成果となりました。
さらに、敷石状遺構、銭貨、食器や甕(かめ)の遺物なども出現しています。
いずれにしても詳細は八王子市文化財課が作成する発掘調査報告書を待ちたいと思います。

さて今後の展開はとなると、プランに挙げられている「御主殿西端の確認調査」の中期計画があります。
今回の発掘で予想外の成果があったことで、あきらかに今後の発掘調査の展開にもうひとつのシナリオが加わったと思われます。
それは、はたして5ケ所の礎石の全体像がどうなっているかです。
やはりこれをきちんと押さえておかねばという選択です(上の写真の赤いスクリーンを掛けた部分)。
プランの「御主殿西端の確認」を行うのか、今回の結果(礎石の出現など)をさらに進展するのか、いずれにしても楽しみです。
戦国八王子城はまだまだ発展途上です。




2021年の初日の出です

2021年の八王子城山の初日の出です(撮影:21/1/1)。
去年から続くコロナ禍の中での新年です。
天気予報が晴れを予想していて期待がもてることからいい撮影場所を確保しようと例年より多少早めに登りはじめました。
ですが新型コロナのためか山頂下の展望スポットはいつもの人数の半分くらいの感じでした。
ここでもしっかりと自粛をしていたということでしょうか。
見知った顔は何人かいたものの、城跡ガイドメンバーは一人もいませんでした。


(初日の出の陽光を受ける八王子市街、見えている範囲は戦国北条の支配下です)



八王子城の新たな鳥瞰図を作成しました

東京都教育委員会の「東京都の中世城館」をもとに新たな八王子城の鳥瞰図を作成しました(21/4/6)。
これは都教委が作成した元図に当ホームページ(HP)編集事務局が加筆・彩色し、城域内の名称を付記したものです。
八王子城を東南方面の上空から見たことを想定した構図です。
八王子城の鳥瞰図として今までは郷土史家が作成したものなど、作成者の思い入れが反映したディフォルメされたものとなっていました。
今回のものは、主峰(本丸)から派生する尾根の形状や高低、あるいは御主殿エリアへの手前の太鼓曲輪尾根のかぶり具合など、赤色立体地図から読み取れる形状と合致するリアルなものとなっています。


2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 鳥瞰図の表示(PDF)


全体像が国土地理院の赤色立体地図に一致

加筆・彩色する過程で国土地理院が提供している地図のサイトの、赤色立体地図にも照らし合わせながら描出したのですが、ほぼその地形図に合致するものとなっています。
都教委の元図は少なくとも2006年より前に作成されたものです。
当時はドローンもなく、赤色立体地図の技法もない時代です。国土地理院地図の標高線と実踏を基本にしていた時代に、その正確な全体像が描かれていることに、あらためて敬意の気持ちを感じます。


八王子城域を網羅して描出

今回の鳥瞰図は広大な八王子城域を網羅して描出しています。
すなわち、八王子城は「居館地区」、「要害地区」、「根小屋地区」、「太鼓曲輪地区」、「御霊谷地区」の5つで構成されますが、それらが広範に描かれています。
特に御霊谷の尾根筋などはどちらかというとなじみが薄く飛ばされることもあるのですが、この鳥瞰図では正面に置いて丁寧に描かれています。


曲輪群の描出はおびただしい数

八王子城は広大なエリアに、戦国期に作られた多数の掘平地(曲輪など)が点在します。この鳥瞰図ではそれらが丁寧に描かれています。
上図では主要な曲輪である御主殿曲輪と本丸は赤で、その他の曲輪は茶色で彩色しています。


堀切も多数存在します

八王子城には戦国当時のリアルな姿を残す堀切が多数存在します。これはベージュで彩色しています。
太鼓曲輪尾根上に5つ(と+α)が描かれています。
八王子城で最も大きな堀切は詰の城の陰にあるのですが、この図は東南方面の上空から見たという想定なので描かれていません。


多数の竪掘りを描出

都教委の元図では多数の竪掘りが書き込まれてれています。
スケール感からすると長さ(上下)はそれなりに、幅はかなり大きく描かれています。
上図ではHP事務局が実踏しても存在が確認できなかったものや自然地形と判別が難しいものは彩色せずそのままにしてあります。
人の手によるものと確認しできるものは緑色系のスジで彩色しています。
ですが彩色してあるものとて、のちの時代の林業作業の搬出路であった可能性は否定できません(いずれも上部には尾根の肩があり、下部には林道が通っていることです)。


この鳥瞰図の今後の展開

今回作成した鳥瞰図はここで初めて公開いたしました。
皆さんのご指摘・ご指導をいただきながらさらにブラッシュアップしていきたいと考えています。
そしてまずはこのHPの八王子城の概要のサブページなどへの挿入、すでに掲載している従来型の鳥瞰図との併記、あるいは差し替えなどを考えています。
また、チャンスがあれば印刷物としても載せていきたいと考えます。




2020年度発掘調査が御主殿西側で行われました

発掘終了後、埋め戻されて現在は次の写真のようになっています(撮影:2021/1/30)。
八王子城跡の御主殿地区の本格的な発掘調査は1992-93年(平成4-5年)に行われました。この中で大型建物遺構、すなわち御主殿と会所が出現しています。
その後、2013年(平成25年)7月に行われた発掘調査により、上記の2つの建物に隣接して新たに池跡が発掘されました。
今回の発掘調査はそれらに続くもので、2020年(令和2年)11月7日から12月1日まで、会所に隣接する西側で行われました。
その結果、大きな建物の存在を確証させる礎石が5ケ所出現しました。
今回の調査では建物遺構の終端まで発掘しているわけではないので、建物は今回の礎石のエリアをカバーした、さらに大きなものであることが容易に想像できます。
また、建物内の土間にあたる部分に炉状遺構が出現しています。これは火を使う設備で、発掘の中心となった八王子市文化財課の村山さんによれば、湯屋か台所だったのではないかとのことです。
ちなみに、戦国期の風呂はお湯につかるものではなく湯気で身体を蒸す、いわばサウナのようなものであったと考えられています。


(今回の発掘は会所に隣接した西側(写真の上方)で、@〜Bの区画で行われています)


(縄張り図:2006「東京都の中世城館」東京都教委から部分表示、当編集部が名称付記。
 今回の発掘はえんじ色枠の逆三角形のエリアです)


(430年間の中で堆積した土石(表土)を取り除く作業が続きます。撮影:2020/11/10)


(ここは区画@、今回は期待したような出土がなかったエリアです。20/11/16)


(区画A、撮影しているときに「礎石が出ました」との一声(白矢印)。感動の一瞬です。20/11/19)


(区画B。赤枠が戦国期落城時に焼かれた焼土の跡。食器遺物は高台(底)が上になってます。20/11/27)


(区画A.市民に向けた公開日です。急な状況の中でも興味のある方が来てくれました。20/11/28)


(同じく公開日。表示が小さいので写真の中に遺構名をふっておきました。20/11/28)


(小学生も見に来てくれました。この中で何人が戦国に興味を持ってくれるか楽しみです。20/12/1)


(埋め戻しの時がきました。養生シートをしっかりと敷いて将来のために保護します。20/12/2)

今回の発掘調査の意義。今後の展開


(埋め戻された発掘場所です。撮影:2021/1/30)

7年ぶりに行われる御主殿地区の発掘にあたっては、2018年(平成30年)2月にまとめられた「八王子城跡保存整備基本構想・基本計画書」(以下プランと略)に「御主殿西端の確認調査」が中期計画として盛り込まれており、さあ、いよいよ上の写真の青いスクリーンを掛けたエリアかと期待が盛り上がりました。
このエリアは、言い伝えとして八王子城主 北条氏照公の寝所があったとされています。
ところが始まった区画を見ればその手前の部分で、会所に隣接したエリアとわかり多少落胆したむきもあったようです。
しかし今回の作業の進行につれて、すでに記載したように大型建物の存在を確証させるような複数の礎石が出現したことは、当初の予想を越える成果となりました。
さらに、敷石状遺構、銭貨、食器や甕(かめ)の遺物なども出現しています。
いずれにしても詳細は八王子市文化財課が作成する発掘調査報告書を待ちたいと思います。

さて今後の展開はとなると、プランに挙げられている「御主殿西端の確認調査」の中期計画があります。
今回の発掘で予想外の成果があったことで、あきらかに今後の発掘調査の展開にもうひとつのシナリオが加わったと思われます。
それは、はたして5ケ所の礎石の全体像がどうなっているかです。
やはりこれをきちんと押さえておかねばという選択です(上の写真の赤いスクリーンを掛けた部分)。
プランの「御主殿西端の確認」を行うのか、今回の結果(礎石の出現など)をさらに進展するのか、いずれにしても楽しみです。
戦国八王子城はまだまだ発展途上です。




2021年の初日の出です

2021年の八王子城山の初日の出です(撮影:21/1/1)。
去年から続くコロナ禍の中での新年です。
天気予報が晴れを予想していて期待がもてることからいい撮影場所を確保しようと例年より多少早めに登りはじめました。
ですが新型コロナのためか山頂下の展望スポットはいつもの人数の半分くらいの感じでした。
ここでもしっかりと自粛をしていたということでしょうか。
見知った顔は何人かいたものの、城跡ガイドメンバーは一人もいませんでした。


(初日の出の陽光を受ける八王子市街、見えている範囲は戦国北条の支配下です)










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