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八王子城の歴史、戦国山城としての特長を概説しています。
口伝や伝承ではなく、実際に残っている事物や構造からその実態を提示します。

八王子城の歴史、戦国山城としての特長を概説しています。
口伝や伝承ではなく、実際に残っている事物や構造からその実態を提示します。



■ 八王子城 最後の大規模山城

八王子城は、戦国時代の末期に小田原に本拠をおき関東に覇権をもった北条氏の三代目当主、氏康の三男の北条氏照によって築かれた山城です。
氏照は幼い頃、武蔵国由井城(八王子市恩方、浄福寺城ともいう)城主だった大石綱周(つなちか)のもとに養子入りし(定久の婿養子とするのは通説)、のちに滝山城主となりました。
その後、氏照としては晩年となるのですが、滝山城を捨て、急峻な深沢山(八王子城山)に、我が国最後の大規模な山城を構築しました。
築城開始は天正十年(1582)以降で、天正十五年(1587)までには居城を八王子城に移しました。
一般的にいってこの時期は、山城の役割は終焉し築城は平城に移っているときです。

ここで最初に明確にしておきたいのは、八王子城は戦国時代の山城なのでもともと天守閣は存在しません。
一方、聳え立つ天守閣をもつ城郭は江戸時代の初期に構築されたものが殆どです。
また、戦国期の城は江戸期のそれに比べて残された古文書、縄張り図なども圧倒的に少なく、まして落城した側の情報を得るのは至難の業といえます。

すなわち、八王子城についていえば文書(もんじょ)などの同時代資料が極端に少ないというのが現状です(多くはのちの時代の資料)。
したがって、口伝や子孫の方々の伝承、郷土史家や歴史文学作家などの思い入れ、さらには庶民の妄想までも内包しながら現在に続いています。
そのような中でもここでは、ひと筋の積み重ねられた事実の一端を提示したいと思います。
それは完成をみることのなかった最後の大規模山城・八王子城の存在の証明です。

■ 八王子城 最後の大規模山城

八王子城は、戦国時代の末期に小田原に本拠をおき関東に覇権をもった北条氏の三代目当主、氏康の三男の北条氏照によって築かれた山城です。
氏照は幼い頃、武蔵国由井城(八王子市恩方、浄福寺城ともいう)城主だった大石綱周(つなちか)のもとに養子入りし(定久の婿養子とするのは通説)、のちに滝山城主となりました。
その後、氏照としては晩年となるのですが、滝山城を捨て、急峻な深沢山(八王子城山)に、我が国最後の大規模な山城を構築しました。
築城開始は天正十年(1582)以降で、天正十五年(1587)までには居城を八王子城に移しました。
一般的にいってこの時期は、山城の役割は終焉し築城は平城に移っているときです。

さらに八王子城についていえば文書(もんじょ)などの同時代資料が極端に少ないというのが現状です(多くはのちの時代の資料)。
したがって、口伝や子孫の方々の伝承、郷土史家や歴史文学作家などの思い入れ、さらには庶民の妄想までも内包しながら現在に続いています。
そのような中でもここでは、ひと筋の積み重ねられた事実の一端を提示したいと思います。
それは完成をみることのなかった最後の大規模山城・八王子城の存在の証明です。


■ 八王子城の築城(1580年代初め)

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八王子城は、関東平野の西端で八王子城山・富士見台山塊がせり出した突端の深沢山(標高460m)を利用して築かれた山城です。
築城の時期は戦国の末期、天正十年(1582)から十五年(1587)と考えられています。



■ 八王子城鳥瞰図(構成する5地区)

八王子城は城山の山頂部を頂点として作り上げられた戦いのための山城で、次の5つの地区から構成されます。

①城主、北条氏照の御主殿を中心とした居館地区
②山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる要害地区
③家臣団の居住区である根小屋地区
④城山川の東南部に連なる尾根の太鼓曲輪地区
⑤太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷(ごれいや)地区


2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 鳥瞰図の表示(PDF)

■ 八王子城の築城(1580年代初め)

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八王子城は、関東平野の西端で八王子城山・富士見台山塊がせり出した突端の深沢山(標高460m)を利用して築かれた山城です。
築城の時期は戦国の末期、天正十年(1582)から十五年(1587)と考えられています。



■ 八王子城鳥瞰図(構成する5地区)

八王子城は城山の山頂部を頂点として作り上げられた戦いのための山城で、次の5つの地区から構成されます。

①城主、北条氏照の御主殿を中心とした居館地区
②山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる要害地区
③家臣団の居住区である根小屋地区
④城山川の東南部に連なる尾根の太鼓曲輪地区
⑤太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷(ごれいや)地区


2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 鳥瞰図の表示(PDF)


■ 八王子城の縄張り

図中でカーソルが変化する拠点については解説と写真を表示できます

2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 縄張り図の表示(PDF)

■ 八王子城の縄張り

図中でカーソルが変化する拠点については解説と写真を表示できます

2006「東京都の中世城館」都教委を Fuma Project(HP事務局)が加筆し名称を付記

   _八王子城 縄張り図の表示(PDF)


■ 八王子城域の構造

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氏照は居城を滝山城から八王子城に移転しながらも、八王子城は最後まで未完のままであったとされています。
しかしながら、八王子城は広大な規模で構成されています。
八王子城の戦略的な位置関係をこの図に示したように、日常の居住区(居館部、根小屋地区)と臨戦対応の要害部に対比して概観しました。

■ 八王子城域の構造

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氏照は居城を滝山城から八王子城に移転しながらも、八王子城は最後まで未完のままであったとされています。
しかしながら、八王子城は広大な規模で構成されています。
八王子城の戦略的な位置関係をこの図に示したように、日常の居住区(居館部、根小屋地区)と臨戦対応の要害部に対比して概観しました。



■ 八王子城の落城  (1590年)

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天下統一をめざす豊臣秀吉は天正十八年(1590)三月、大軍を率いて小田原に向かい、四月には北条勢が立てこもる小田原城を包囲しました。
一方、前田利家と上杉景勝らが率いる北国勢は信濃から上州へ攻め込み、北条方の諸城を落としながら南下し、氏照の弟、北条氏邦の居城の鉢形城(埼玉県寄居)も攻略しています。
さらに秀吉による強い指示を受けた北国勢は八王子城に迫って来ました。このとき氏照とその精鋭部隊は小田原城に援軍中でした。
六月二十三日(旧暦)、北国勢による大軍の猛攻を受け八王子城は1日にして落城しました(西暦では 1590年7月24日)。

(図はガイダンスシアター「八王子城物語」より)

■ 八王子城の落城  (1590年)

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天下統一をめざす豊臣秀吉は天正十八年(1590)三月、大軍を率いて小田原に向かい、四月には北条勢が立てこもる小田原城を包囲しました。
一方、前田利家と上杉景勝らが率いる北国勢は信濃から上州へ攻め込み、北条方の諸城を落としながら南下し、氏照の弟、北条氏邦の居城の鉢形城(埼玉県寄居)も攻略しています。
さらに秀吉による強い指示を受けた北国勢は八王子城に迫って来ました。このとき氏照とその精鋭部隊は小田原城に援軍中でした。
六月二十三日(旧暦)、北国勢による大軍の猛攻を受け八王子城は1日にして落城しました(西暦では 1590年7月24日)。

(図はガイダンスシアター「八王子城物語」より)





■ 幽閉幾星霜、八王子城存在の証明

落城後、八王子城は徳川家康の手にゆだねられそののち徳川幕府の直轄領となり再利用されることはありませんでした。
三百余年の時空は八王子城の多くの部分を大地の中に風化させましたが、またある部分はその中でも生き長らえてその存在を現代の我々に伝えています。
その糸を手繰り寄せることによって口伝、伝承、伝説の世界ではなく、真の八王子城の姿を科学的に提示することができます。

■ 幽閉幾星霜、八王子城存在の証明

落城後、八王子城は徳川家康の手にゆだねられそののち徳川幕府の直轄領となり再利用されることはありませんでした。
三百余年の時空は八王子城の多くの部分を大地の中に風化させましたが、またある部分はその中でも生き長らえてその存在を現代の我々に伝えています。
その糸を手繰り寄せることによって口伝、伝承、伝説の世界ではなく、真の八王子城の姿を科学的に提示することができます。



■ 慶安の古図 八王子城絵図の原典

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江戸時代慶安年間(1648~51)に記された「慶安の古図」は落城時の八王子城を知る原典となります。
1987年(昭和62年)、88年の発掘が行われる前は現在の虎口周辺から御主殿曲輪あたりは山野の状態であり、それまで「慶安の古図」に描かれている「北条陸奥守御主殿」はじめその存在物の真贋はいかにと考えられていました。
また「慶安の古図」には落城時の北国勢の布陣も前田利家軍(羽柴筑前殿と記載)や上杉景勝軍(景勝殿と記載)などと明記されています。
「慶安の古図」に記載されている実態を掘り起こすことこそが八王子城の存在の証明です。

(慶安の古図:石井義兼氏所蔵 八王子市文化財課ガイド資料より)

■ 慶安の古図 八王子城絵図の原典

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江戸時代慶安年間(1648~51)に記された「慶安の古図」は落城時の八王子城を知る原典となります。
1987年(昭和62年)、88年の発掘が行われる前は現在の虎口周辺から御主殿曲輪あたりは山野の状態であり、それまで「慶安の古図」に描かれている「北条陸奥守御主殿」はじめその存在物の真贋はいかにと考えられていました。
また「慶安の古図」には落城時の北国勢の布陣も前田利家軍(羽柴筑前殿と記載)や上杉景勝軍(景勝殿と記載)などと明記されています。
「慶安の古図」に記載されている実態を掘り起こすことこそが八王子城の存在の証明です。

(慶安の古図:石井義兼氏所蔵 八王子市文化財課ガイド資料より)



■ 生き長らえた遺構

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三百余年の時空を経て土石の侵食にもうずもれることなく生き長らえてきた遺構がいくつかあります。
そのひとつが、山頂(本丸跡)をめざして登山道を登り始めてじきに左手に現れる馬蹄段です。
これは上に述べた「慶安の古図」にも明瞭に描かれています。
また、山頂地区の「松木曲輪」、「小宮曲輪」、さらには「山頂の曲輪」などもむき出しのまま生き長らえてきた遺構です。これらも「慶安の古図」に描かれていて八王子城の存在を実証するものです。
でありながら、時代が現代に進んでも人々の目に展開する城山は森林でありただの山でした。

一方、「慶安の古図」には城主氏照公の「御主殿」、またそこへ導入する登城道の存在も明確に描かれています。
そのギャップを埋めるためには幽閉された存在を白日のもとにさらけ出す作業が必然です。

(写真:馬蹄段はむき出しの戦国遺構)

■ 生き長らえた遺構

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三百余年の時空を経て土石の侵食にもうずもれることなく生き長らえてきた遺構がいくつかあります。
そのひとつが、山頂(本丸跡)をめざして登山道を登り始めてじきに左手に現れる馬蹄段です。
これは上に述べた「慶安の古図」にも明瞭に描かれています。
また、山頂地区の「松木曲輪」、「小宮曲輪」、さらには「山頂の曲輪」などもむき出しのまま生き長らえてきた遺構です。これらも「慶安の古図」に描かれていて八王子城の存在を実証するものです。
でありながら、時代が現代に進んでも人々の目に展開する城山は森林でありただの山でした。

一方、「慶安の古図」には城主氏照公の「御主殿」、またそこへ導入する登城道の存在も明確に描かれています。
そのギャップを埋めるためには幽閉された存在を白日のもとにさらけ出す作業が必然です。

(写真:馬蹄段はむき出しの戦国遺構)



■ 発掘された事実 科学的証明①

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主立った発掘調査は1987年(昭和62年)から行われました。
これは、「慶安の古図」に描かれた絵空事から、土石にうずもれた八王子城の実態を白日のもとにさらけ出す作業です。

87年には御主殿への登城口などが調査され、それまでただ単に森林の中の谷だった部分から、古図に描かれていたとおり御主殿に直結した石段と2ケ所の踊り場が発掘され虎口の全容が我々の眼前に展開されました。
これは口伝・伝承、妄想などから醸成されたものとは別の次元で、八王子城の存在を科学的に証明するものであります。

(発掘された御主殿に直結する石段、踊場。城跡内掲示資料より)

■ 発掘された事実 科学的証明①

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主立った発掘調査は1987年(昭和62年)から行われました。
これは、「慶安の古図」に描かれた絵空事から、土石にうずもれた八王子城の実態を白日のもとにさらけ出す作業です。

87年には御主殿への登城口などが調査され、それまでただ単に森林の中の谷だった部分から、古図に描かれていたとおり御主殿に直結した石段と2ケ所の踊り場が発掘され虎口の全容が我々の眼前に展開されました。
これは口伝・伝承、妄想などから醸成されたものとは別の次元で、八王子城の存在を科学的に証明するものであります。

(発掘された御主殿に直結する石段、踊場。城跡内掲示資料より)



■ 落城四百年事業に向けた復元

翌88年には御主殿地区と城山川を挟んだ、曳橋々台部や御主殿への登城道(大手道)、大手門跡などが調査・検出されています。

一方、これらの結果をもとに89年(平成元年)から90年にわたって復元工事が行われ、大手門・大手道から虎口を経由し、御主殿の入り口である冠木門までの整備が行われました。
これは八王子市の落城四百年事業に向けたものです。


(虎口周辺の整備工事。八王子市文化財課ガイド資料より)    

■ 落城四百年事業に向けた復元

翌88年には御主殿地区と城山川を挟んだ、曳橋々台部や御主殿への登城道(大手道)、大手門跡などが調査・検出されています。

一方、これらの結果をもとに89年(平成元年)から90年にわたって復元工事が行われ、大手門・大手道から虎口を経由し、御主殿の入り口である冠木門までの整備が行われました。
これは八王子市の落城四百年事業に向けたものです。


(虎口周辺の整備工事。八王子市文化財課ガイド資料より)    



■ 復元された虎口・城壁・石段

落城四百年事業(1990年)に向けて整備されたのはここまです。
しかしながら、これは八王子城跡の見た目のかなりの部分を形作っています。
これからのち20年間はこの風景が突出して八王子城のイメージを演出してきました。

復元された石垣も戦国時代と同じ野面(のづら)積という工法によって積み上げられたものです。
曳橋の下の見学道あたりからじっくりとこの石垣を見上げて下さい。
石にナンバーを振っているのが見てとれるでしょう。
発掘して出てきた遺物である石をもとに出来るだけ忠実に復元することに腐心したであろう関係者の方々のご努力を賛辞します。そして感謝いたします。

■ 復元された虎口・城壁・石段

落城四百年事業(1990年)に向けて整備されたのはここまです。
しかしながら、これは八王子城跡の見た目のかなりの部分を形作っています。
これからのち20年間はこの風景が突出して八王子城のイメージを演出してきました。

復元された石垣も戦国時代と同じ野面(のづら)積という工法によって積み上げられたものです。
曳橋の下の見学道あたりからじっくりとこの石垣を見上げて下さい。
石にナンバーを振っているのが見てとれるでしょう。
発掘して出てきた遺物である石をもとに出来るだけ忠実に復元することに腐心したであろう関係者の方々のご努力を賛辞します。そして感謝いたします。



■ 御主殿跡の発掘 科学的証明②

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御主殿地区の発掘調査は、まず、1987年には試掘調査が行われ内部に大型の礎石建物の存在が確認されました。さらに、御主殿地区の本格的な発掘調査は四百年記念事業が一段落したのち、92年、93年(平成4年、5年)にわたり行われました。
その結果、「慶安の古図」に北条陸奥守(氏照公)の御主殿と描かれていたエリアに、大型建物遺構(2棟)が姿を見せることになります。
周辺には関連する施設の遺構も認められました。
またこの地区では7万点におよぶ遺物などが出土しました。

「慶安の古図」に描かれた御主殿が発掘されたことにより、登城道(大手道)、虎口などの発掘からさらに場面を大きく転回し、八王子城の中枢部の存在の証明が見事に科学的に完結です。

■ 御主殿跡の発掘 科学的証明②

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御主殿地区の発掘調査は、まず、1987年には試掘調査が行われ内部に大型の礎石建物の存在が確認されました。さらに、御主殿地区の本格的な発掘調査は四百年記念事業が一段落したのち、92年、93年(平成4年、5年)にわたり行われました。
その結果、「慶安の古図」に北条陸奥守(氏照公)の御主殿と描かれていたエリアに、大型建物遺構(2棟)が姿を見せることになります。
周辺には関連する施設の遺構も認められました。
またこの地区では7万点におよぶ遺物などが出土しました。

「慶安の古図」に描かれた御主殿が発掘されたことにより、登城道(大手道)、虎口などの発掘からさらに場面を大きく転回し、八王子城の中枢部の存在の証明が見事に科学的に完結です。





■ 御主殿曲輪 雌伏二十年

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しかしながら、御主殿地区の調査・測量ののち、一帯は60cmくらいの覆土がなされ埋め戻され、その後20年近く広いただの芝生の原っぱでした。

氏照公が造り上げた御主殿はどこへ行ったのでしょう。
氏照公が茶席を催してながめたであろう庭園はどうなったのでしょうか?

■ 御主殿曲輪 雌伏二十年

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しかしながら、御主殿地区の調査・測量ののち、一帯は60cmくらいの覆土がなされ埋め戻され、その後20年近く広いただの芝生の原っぱでした。

氏照公が造り上げた御主殿はどこへ行ったのでしょう。
氏照公が茶席を催してながめたであろう庭園はどうなったのでしょうか?



■ 御主殿地区の復元的整備(遺構イメージの創出)

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89年(平成元年)から90年の2年で行われた工事で終息していた復元も、御主殿地区で再び景色を塗り替える波が起こりました。
2012年(平成24年)から13年に御主殿地区の復元的整備が行われることとなったからです。

この写真が2013年(平成25年)4月に完成した御主殿跡の遺構イメージです。
これは大型礎石建物跡(建物としての名称は主殿:遺構No.[SB02])です。
ここは氏照公の執務や生活のための館であり、いわば、八王子城の本社機能がつまったビルということになります。
今、下に配置されているのはレプリカ、というよりはイメージ石です。
本物はこの地表から60cm下にしっかりと眠らせたままです。後世まで大事にとっておくためです。
このイメージ石は発掘された地中に存在するそれぞれの礎石(土台石)に対応した真上に置かれています。

ちなみに、実際に建っていた大型の館とはこんな感じだったのでしょうか(ここをクリック)


イメージ

左は会所とそれに隣接する石庭の遺構イメージです。
左側は床まで復元された2つ目の大型礎石建物跡(建物としての名称は会所:遺構No.[SB01])です。
中央から右に展開するのが庭園状遺構(遺構No.[SG01])です。
御主殿跡は全てイメージ石であったのに対し、ここに配置されているのはレプリカが中心となります。
ここに見える石は出所の由来により3つのグループに分かれます。
一つ目は、小ぶりで黒っぽく光沢がありエッジが鋭いものです。硬質砂岩で市内および青梅市の採石業者から買ってきたものです。
二つ目は、比較的大ぶりで白っぽいものです。これは30年ほど前に発掘されたときの資料をもとに職人の方々が丹念に作り上げた擬岩です。
三つ目は、右上にある大きくて黒っぽい三角の石です。
これこそが戦国時代から生き抜いてきたほんまもんの遺物です。いわば、「戦国証言石」です。

ということで、これは枯山水の庭園として復元的整備をしたわけですが、あとで述べる2013年の発掘調査で池跡とそれをかこむ庭園の遺構が新たに出現し、枯山水どころか水を使った庭園だったということになったのです(どんでん返し)。

■ 御主殿地区の復元的整備(遺構イメージの創出)

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89年(平成元年)から90年の2年で行われた工事で終息していた復元も、御主殿地区で再び景色を塗り替える波が起こりました。
2012年(平成24年)から13年に御主殿地区の復元的整備が行われることとなったからです。

この写真が2013年(平成25年)4月に完成した御主殿跡の遺構イメージです。
これは大型礎石建物跡(建物としての名称は主殿:遺構No.[SB02])です。
ここは氏照公の執務や生活のための館であり、いわば、八王子城の本社機能がつまったビルということになります。
今、下に配置されているのはレプリカ、というよりはイメージ石です。
本物はこの地表から60cm下にしっかりと眠らせたままです。後世まで大事にとっておくためです。
このイメージ石は発掘された地中に存在するそれぞれの礎石(土台石)に対応した真上に置かれています。

ちなみに、実際に建っていた大型の館とはこんな感じだったのでしょうか(ここをクリック)


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左は会所とそれに隣接する石庭の遺構イメージです。
左側は床まで復元された2つ目の大型礎石建物跡(建物としての名称は会所:遺構No.[SB01])です。
中央から右に展開するのが庭園状遺構(遺構No.[SG01])です。
御主殿跡は全てイメージ石であったのに対し、ここに配置されているのはレプリカが中心となります。
ここに見える石は出所の由来により3つのグループに分かれます。
一つ目は、小ぶりで黒っぽく光沢がありエッジが鋭いものです。硬質砂岩で市内および青梅市の採石業者から買ってきたものです。
二つ目は、比較的大ぶりで白っぽいものです。これは30年ほど前に発掘されたときの資料をもとに職人の方々が丹念に作り上げた擬岩です。
三つ目は、右上にある大きくて黒っぽい三角の石です。
これこそが戦国時代から生き抜いてきたほんまもんの遺物です。いわば、「戦国証言石」です。

ということで、これは枯山水の庭園として復元的整備をしたわけですが、あとで述べる2013年の発掘調査で池跡とそれをかこむ庭園の遺構が新たに出現し、枯山水どころか水を使った庭園だったということになったのです(どんでん返し)。



■ PS-1: 復元的整備の作業はこんな感じで行われました。

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左は復元的整備の作業の1シーンです(12/10/31)。

擬岩は次のようにして作られました。
まず、地下60cmにある遺石の真上に金枠を組み上げます(写真左端のように溶接バーナーの炎が見えます)。
それにモルタルを塗り込み、職人の方々が地中の遺石に忠実に丹念に作り上げました。

■ PS-1: 復元的整備の作業はこんな感じで行われました。

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左は復元的整備の作業の1シーンです(12/10/31)。

擬岩は次のようにして作られました。
まず、地下60cmにある遺石の真上に金枠を組み上げます(写真左端のように溶接バーナーの炎が見えます)。
それにモルタルを塗り込み、職人の方々が地中の遺石に忠実に丹念に作り上げました。





■ 2013年の発掘調査(池跡の出現)

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この発掘調査は、1992年、1993年(平成4年、5年)にわたり行われた発掘調査の際も緑地環境保全という呪縛から手が出せなかった部分が、2012年の復元的整備の過程で思いがけず樹木の伐採がOKとなったことにより進展したものです。
2013年7月の発掘開始当初は、御主殿の未確認部分の礎石(土台石)など、想定内のものが出現するだろうと考えられていました。

ところが発掘作業が進むにつれ驚くような予想外の展開を見せることになりました。


イメージ

未発掘だったちょうど真下の部分から大きな池跡とそれをとり巻くように池泉回遊式の庭園遺構が出現したのです。
戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高い庭園です。
このレビューの中で「戦国証言石」として注目してきた石は今回の発掘時、石組みとしては3つのセットの中の中心をなすものとして発掘されたということです。
すなわち、枯山水形式の庭園の個別の守護石や景石(けいせき)などではなく、三尊石組(さんぞんいわぐみ)の中心をなす主石(中尊石)だったんです(13/09/13)。
しかし発掘の作業時、3つのセットの中の左側の石は原形をとどめずに砕けきった状態で発掘され「欠損」にしたようです(矢印のように別の場所に移管)。
ちなみに、その右手前の大きな石は三尊構成の中の添石(脇侍石)です。

三尊石の右奥に新たに落城時の焼土面が検出されています。これは92年の発掘時に出現した焼土面より1~2mほど高いところにあります。ということはここには築山とかがあったのでしょうか。

主石(中尊石)は最初の発掘から20年間は芝生の原っぱの中で少しだけ頭をのぞかせていました(ここをクリック)

■ 2013年の発掘調査(池跡の出現)

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この発掘調査は、1992年、1993年(平成4年、5年)にわたり行われた発掘調査の際も緑地環境保全という呪縛から手が出せなかった部分が、2012年の復元的整備の過程で思いがけず樹木の伐採がOKとなったことにより進展したものです。
2013年7月の発掘開始当初は、御主殿の未確認部分の礎石(土台石)など、想定内のものが出現するだろうと考えられていました。

ところが発掘作業が進むにつれ驚くような予想外の展開を見せることになりました。


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未発掘だったちょうど真下の部分から大きな池跡とそれをとり巻くように池泉回遊式の庭園遺構が出現したのです。
戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高い庭園です。
このレビューの中で「戦国証言石」として注目してきた石は今回の発掘時、石組みとしては3つのセットの中の中心をなすものとして発掘されたということです。
すなわち、枯山水形式の庭園の個別の守護石や景石(けいせき)などではなく、三尊石組(さんぞんいわぐみ)の中心をなす主石(中尊石)だったんです(13/09/13)。
しかし発掘の作業時、3つのセットの中の左側の石は原形をとどめずに砕けきった状態で発掘され「欠損」にしたようです(矢印のように別の場所に移管)。
ちなみに、その右手前の大きな石は三尊構成の中の添石(脇侍石)です。

三尊石の右奥に新たに落城時の焼土面が検出されています。これは92年の発掘時に出現した焼土面より1~2mほど高いところにあります。ということはここには築山とかがあったのでしょうか。

主石(中尊石)は最初の発掘から20年間は芝生の原っぱの中で少しだけ頭をのぞかせていました(ここをクリック)



■ PS-2: 発掘調査中の池に水(台風のいたずら)。

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発掘調査により出現した池遺構の底は山砂利を固く突き固めた上に粘土を6~10cmの厚さで貼られています。これは水を溜めるための工夫です。
ですが、戦国の時、はたして水を張るところまで完成していたのでしょうか?
氏照公は実際に水が張られた池を眺めることはあったのでしょうか?
発掘の結果では池の中はいたってきれいで、水草が生えていた形跡はありませんでした。
鯉でも泳がせていたとすると背骨くらいは残っていてほしいのですが、そういうものは見つかっていません。

(2013年10月)16日未明に関東地方を台風が通過しました。
この台風の雨で思わぬ水張りの実験となりました(13/10/17)。

■ PS-2: 発掘調査中の池に水(台風のいたずら)。

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発掘調査により出現した池遺構の底は山砂利を固く突き固めた上に粘土を6~10cmの厚さで貼られています。これは水を溜めるための工夫です。
ですが、戦国の時、はたして水を張るところまで完成していたのでしょうか?
氏照公は実際に水が張られた池を眺めることはあったのでしょうか?
発掘の結果では池の中はいたってきれいで、水草が生えていた形跡はありませんでした。
鯉でも泳がせていたとすると背骨くらいは残っていてほしいのですが、そういうものは見つかっていません。

(2013年10月)16日未明に関東地方を台風が通過しました。
この台風の雨で思わぬ水張りの実験となりました(13/10/17)。



■ 埋め戻し作業

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のちの時代に伝聞や想像から書かれた百の文言よりも、今回提示された遺構は揺るぎもない八王子城のいとなみの一部をつぶさに提示するものです。
不完全燃焼の気持ちを残しながら埋め戻しのときを迎えました(13/12/04)。
我々は生きている間に二度とこの遺構を目にすることはないはずです。

発掘された遺構のデリケートな部分は緩衝材でくるみ、そののち全面をブルーシートで覆い、出てきた玉石を投げ込み、あとは残土を被せ60cmくらいの厚さで埋めてしまうというものです。

■ 埋め戻し作業

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のちの時代に伝聞や想像から書かれた百の文言よりも、今回提示された遺構は揺るぎもない八王子城のいとなみの一部をつぶさに提示するものです。
不完全燃焼の気持ちを残しながら埋め戻しのときを迎えました(13/12/04)。
我々は生きている間に二度とこの遺構を目にすることはないはずです。

発掘された遺構のデリケートな部分は緩衝材でくるみ、そののち全面をブルーシートで覆い、出てきた玉石を投げ込み、あとは残土を被せ60cmくらいの厚さで埋めてしまうというものです。



■ 埋め戻された庭園遺構

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5ヶ月を超す時空の知見や興奮を封じ込めたまま、また平穏な御主殿地区が戻ってきました。

さあ、しばしこの床敷きの回廊に腰を落とし、戦国の武将たちが戦いに明け暮れた日々の中にも、ひとときの安らぎを求め、一服のお茶を飲んだことを心に描いてみましょう。

■ 埋め戻された庭園遺構

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5ヶ月を超す時空の知見や興奮を封じ込めたまま、また平穏な御主殿地区が戻ってきました。

さあ、しばしこの床敷きの回廊に腰を落とし、戦国の武将たちが戦いに明け暮れた日々の中にも、ひとときの安らぎを求め、一服のお茶を飲んだことを心に描いてみましょう。







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