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八王子城 公式ガイド
Official Guide
オフィシャルガイドの会
見出し
HEADLINE
■ 天守閣はいずこに ?
八王子城の天守閣はどこにあったのでしょうか ?
山頂には「八王子城本丸跡」と銘した石碑があります。
また西の奥、詰の城には「八王子城大天守」と彫り込まれた石標があります。
しかし、八王子城は戦国時代の山城なので、もともと五層(五階建て)とかの聳え立つような天守閣はありませんでした。
この時代(戦国)に五層以上の天守閣をもった城郭として、織田信長が構築した安土城(1579年)があります。
多くの方がイメージするような天守閣をもった城の殆どは、江戸時代の初期、一斉に全国的に建てられたものです。
■ 御主殿
御主殿は八王子城の中で最大の建築物で、そして、中心となる建物です。
場所は八王子城山の南麓、御主殿曲輪(くるわ:後述)にありました。
「御主殿」という名前は八王子城跡に独特の表現で、江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に由来します。
古図にはここを「北条陸奥守殿(氏照公のこと)御主殿」と記載しています。
このように八王子城の重要な部所のネーミングは、この古図からとったものが多くあります。
御主殿地区の本格的な発掘調査は、1992年〜1993年(平成4年、5年)にわたり行われました。
その中でこの御主殿は93年に発掘が行なわれ、上の写真のような大型礎石建物跡(いわゆる御主殿跡)を示す多くの礎石(土台石)が出現しました。
これは氏照公の執務や生活のための館であり、今でいえば、八王子城の本社機能がつまったビルということになります。
( VR(virtual reality)画像はガイダンスシアター「八王子城物語」より)
■ 会所
会所は八王子城跡の中で御主殿と並ぶ重要な建物です。
これは要人の接待を目的として作られた建物で、今でいえばレセプションホールです。
会所は、現在、床まで復元されています。
八王子城の発掘された遺物の中で超特級のものとしてベネチア製のレースグラスがありますが、それはここで発見されています。
( VR(virtual reality)画像はガイダンスシアター「八王子城物語」より)
■ 八王子城の曲輪(くるわ)群
曲輪(くるわ)とは、堀や土塁で囲んでつくられた平地(ひらち)で、戦国時代のものは土塁で囲まれたものや、あるいは柵列(さくれつ)で囲まれたものがあります。
八王子城では次に述べる御主殿曲輪のように切土と盛土による大規模な人工平地のほかに、小丘を削平(さくへい)した 小さなものまで、多くの曲輪が認められます。
戦国時代、人の手で作られた曲輪を縄張図から確認できます。図の中で、赤または茶色で塗られたところが曲輪(または小曲輪)です。
これをクリック(PDF)
曲輪は、江戸時代初期に造られた城郭の・・・丸、すなわち、二の丸、三の丸、北の丸や、NHK大河でも取り上げられた真田丸などの「丸」と同じ意味です。
■ 御主殿曲輪
御主殿曲輪(くるわ)は八王子城山の南麓に広がる平地(ひらち)で、八王子城で最大の曲輪です。
山側を削り(切土)、谷側(城山川)に盛り土(盛土)して作られた人工的な台地です。
1992年〜1993年(平成4・5年)に大規模な発掘調査が行われ、北条氏照公が執務や居住していた御主殿と、接待のための館の会所などがが出現しました。
ここには五層(五階建て)とかの聳え立つような天守閣はもともとありませんでした。
その根拠は1992-93年の発掘調査など数次におよぶ調査でも瓦が1枚も見つからなかったことです。
この時代(戦国)、四階の櫓をもつものは信貴山城などいくつかあります。
しかし、五層以上の天守閣をもった城郭は織田信長が構築した安土城(1579年)が最初のものです。
皆さんがイメージするような天守閣をもった城の多くは江戸時代の初期に全国的に建てられたものです。
■ アシダ曲輪群
アシダ曲輪は三段ほどの上下に構成される曲輪群です。場所は八王子城山の南東麓にあります。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にこの場所を「アシダ蔵」と記載されているところから、現在はアシダ曲輪と呼んでいます。
この古図の作成時(1648年)、取材スタッフに「ここはくりゃ(くるわ)だで〜」と説明されたものを、「蔵」と書き取り間違い(?)をしたのでしょうか。それで現在は「アシダ曲輪」と書きかえて表現しています。
三段構成の中でこの写真は最下段に位置する曲輪で、縁(ふち)をぐるりと土塁で取り囲まれている(右側)のがわかるでしょうか。戦国時代からの遺構です。
ここは有力な家臣の屋敷跡と考えられています(上の聞き取り間違いでなかったとしたら食糧庫)。
■ 馬蹄段(小曲輪段)
馬蹄段(ばていだん)は、本丸跡(山頂)をめざして登山道を登り始めてやがて左手に現れる階段状の削平地(さくへいち)からなる小曲輪の連なりです。
馬蹄段は戦国の時に構築されたものがそのまま見られる遺構のひとつです。
これは攻め上がってくる敵軍を迎え撃つためにしつらえられた防御の仕組みです。
上下に八段続きます。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの存在が明確に描かれています。
■ 金子曲輪
金子曲輪は、落城のとき金子家重が守備していたとされる場所ですが詳細はわかっていません。
金子曲輪の存在は「慶安の古図」(1548)には描かれていいません。
現在は、すぐ下に梅林が展開し1月中旬から3月まで、梅花が目を楽しませてくれます。
また、対岸には太鼓曲輪尾根がよく見えます。
■ 柵門跡(せり出し部)
柵門跡は柵門台とも呼ばれます。
山頂部へ向かう現在のメインの登山道にあり、新道と旧道および搦め手(城の裏側)からの登城道の合流点で、休憩ができるなど要所になっています。
御主殿方向にせり出した台地で、戦国時代は木が無かったと考えれば関東平野を見渡す見晴らし台になったと思われます。
次の山王台と双頭の位置にあります。
■ 山王台(せり出し部)
山王台は御主殿方向にせり出した台地で、柵門跡と双頭の位置にあります。
殿の道コースで山頂に登るときの一服したくなる休憩場所になります。
ここには昭和8年に建立された大きな石碑があります。
「八王子城戦死者招魂碑」と銘され戦国時代の落城のときの戦死者を追悼するためのものです。
■ 高丸曲輪群
高丸はいくつかの曲輪で構成されています。
山頂に向かう道の前に立ちはだかる急勾配は「切り岸」(写真では左側)に見えます。
中に立ち入ると、縁(ふち)には土塁(写真中央)が残されてあり、その右側内部には比較的小さな曲輪が幾重にも存在します。戦国当時、重要な拠点であったことがうかがいしれます。
すなわち、高丸は要害部の東側の防御の要であり、これと対応する西側(甲斐側)の防御の要が無名曲輪群です。
高丸の防衛線が絶壁の「切り岸」であり、無名曲輪群の防衛線がその下の馬冷しの堀切りです。
■ 山頂曲輪(本丸跡)
山頂曲輪は要害地区(山頂部)を構成する曲輪群の中で中心に位置する曲輪です。
山頂部に存在する曲輪群は、いずれもこの曲輪を中心に配置されています。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」には11間x7間の広さがあったと記載されているので、これは我々が現在見ているものとほぼ同じ広さと考えられます。
天守閣が建っていたような広さではありません。
落城のとき、横地監物が守備したとされています。戦いのときの象徴的な場であったといえます。
現在では「八王子城本丸跡」と銘した石碑があります。昭和32年(1957年)に建てられたものです。
■ 山頂 帯曲輪
帯曲輪は山頂曲輪をぐるりと囲むように削平(さくへい)して帯状に作られた曲輪(帯曲輪または腰曲輪)です。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの曲輪が「腰曲輪」として記載されています。
山頂曲輪に立ち北側の縁(へり)から下をのぞいて見るとその存在がわかります(上写真)。
手前の日蔭の部分が山頂曲輪で、その一段下の帯状の平地(ひらち)が帯曲輪です。現在、杉が植林されています。
戦いのときに攻め手を迎え撃つ基地や備蓄庫になったと考えられます。
■ 松木曲輪
松木曲輪は山頂曲輪の東南下に配置されています。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの曲輪の記載があります。
落城のとき、中山勘解由が守備した曲輪であるとされています。
現在、数組のテーブルやイスが備えつけられていて、八王子城で最も人気のあるランチスポットです。
左手の奥には高尾山ケーブルの山頂駅が見えます。
■ 小宮曲輪
小宮曲輪は山頂曲輪の北東下に配置されています。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもこの曲輪の記載があります。
落城のとき、狩野一庵が守備した曲輪であるとされています。
搦め手から奇襲で攻め上がった上杉景勝軍により最初に陥落されたと言い伝わっています。
■ 中の曲輪
中の曲輪は、やれやれと山頂部にとりついて最初に出合うほっこりとした空間です。
中の曲輪の存在は慶安の古図(1548)には描かれていいません。
中の曲輪という名称はのちの時代の人の命名ですね。
雨のときの休憩などに役立ちそうな大きなあずまやがあります。
■ 無名曲輪群
無名曲輪群は山頂曲輪の西下に配置されています。
要害部の東側の防御の要が高丸であり、無名曲輪はそれと対応する西側(甲斐側)の防御の要です。
無名曲輪はこの写真に示した削平地(さくへいち)が中心にあり、それをいくつかの曲輪でとり囲むという強固な防御構造です。
高丸が「切り岸」の絶壁で敵の侵攻を防ぐのに対し、ここはすぐ下の馬冷しの堀切りで防御するというものです。
どうしてこのような堅固な防御基地が「無名曲輪」となったのか定かではありませんが、八王子城内の名称は江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に記載されている名前が、その由来が一番はっきりとわかっているものです。
この曲輪はそれに記載がないので、現代のひとが、それでは「無名だ」と言ってそうなったのでしょうか。
■ 詰の城(西端曲輪)
詰の城は八王子城の作り込まれた城域としての西側の端に位置します。
通説では詰の城の役割は、本丸が陥落したときに最後の拠点にするために構築された小曲輪であるとするものです。
ここを頂点にして北側には「詰城北尾根」、南側には「詰城南尾根」が延び、いずれも石塁・石垣による要壁を形成しています。
この西側すぐ下には尾根を鋭くえぐり取ったようなこの城最大の掘切り、「大堀切」があります。
■ 太鼓曲輪
太鼓曲輪は御主殿に対面する尾根の上に、筋状に作られた曲輪群です。
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にこの曲輪の記載があります。
大きな平地があるわけではなく、削ったあとが尾根の背に線状に続くのが見てとれます。
イメージとして把握しておきたいときは
これをクリック(PDF)
「太鼓曲輪」の表記の上のあたりの尾根筋がこの写真です。
この太鼓曲輪の特徴はあとで記載するように、第一〜第五まで合計5つの掘り切りが430余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく、当時の削りとられたままの姿で残っていることです。
■ 御主殿西尾根 肩の曲輪
山頂部(本丸)から派生する尾根は数本ありますが御主殿西尾根は最も大きなもののひとつです。
中腹に大きなせり出し部があり、いわゆる尾根肩になっていて、ここに比較的しっかりとした曲輪が存在します(上の写真参照)。また、この曲輪の上下にも小曲輪が存在します。
山頂部へ向かうルートはいずれも地形の関係で御主殿を見下ろすものはないのですが、このルートは唯一御主殿曲輪を望むことができます。
戦国の落城のとき、八王子北条の者たちはこの場所から、眼下に御主殿が焼け落ちていくのを涙して見ていたはずです。
八王子城域内の位置
[参照:クリック]
。中心部に表示されます。
■ 八王子城を構成する石垣群
八王子城を構成する石垣は大枠として、御主殿地区と要害地区のいわば主郭エリアを囲むように、3つの石垣列(トライアングル)で形成されています(上図の赤いライン)。
さらにそれに囲まれた内側の各拠点には多くの石垣群が構築されています。
八王子城の石垣は、この山を削り曲輪を作る過程で出てきた石(硬質砂岩)を利用して構築されたものです。
石垣の工法は・・・・・
@大むね野面積み(のづらづみ)です。これは、自然石を加工せずにそのままランダムに積み上げる方法です。すき間には小さな石を詰めながら積み重ねます。
Aまた、穴太積(あのうづみ、穴太積み)を想起させるような石積みも認められます。
Bさらに、詰城を起点とする北尾根、南尾根には長大な石塁群が認められます。
(記載は@〜Bと移るにつれ、多少規則性があるものからランダムなものへと、積み方が変わります)
■ 八王子城石垣(最初の一歩)
御主殿への虎口(入り口)を構成する石垣は、八王子城を印象付ける重要な要素のひとつです。
それは戦国の時も現在でも、来城された方がまず最初に目にする石垣であるからです。
ここで見ているものは1990年、それまでに発掘されて出現したものを基調にし、修復し復元した石垣です。
■ 御主殿の滝 横の石垣
これは御主殿の滝の側壁に組まれた石垣です。
御主殿の滝の左岸(下流に向かって見下ろしたときの左側)に存在します。
この石垣の右に視線を移すと延長線上に隅角石が見えます。
これはこの石垣列の終端を意味します。
さらにこの構造を証明するように2019年10月、新たな石垣遺構が出現しました。
2019年10月の台風19号は八王子城にも多くの厳しい爪痕を残しましたが、全くネガティブなだけではありません。
大雨で土手が流されて新たな戦国遺構が出現しました。
このように、八王子城には解明しきれていない謎がまだまだたくさんあります。
ちなみに、この石垣の上が御主殿の滝を見下ろす自刃の淵
(ここをクリック)
です。
■ アシダ曲輪 南面石垣
この石垣は八王子城跡周回ルートの初めの方で通り過ぎる場所にあります。
戦国に積まれたそのままの姿で残っています。
アシダ曲輪は地権者との関係で、ガイドと一緒でないと入れない場所ですが、この石垣は曲輪の側面の土塁を構成するものなので誰でも見られます。
■ 御主殿曲輪 東側壁石垣
この石垣も戦国に積まれたままのものです。
地権者との関係で、ガイドと一緒でないと入れないエリアなので、楽な場所なのに見ている人は少ないと思われます。
ここから御主殿曲輪東側面の大きな空掘り(横堀)が始まる地点です。
■ 御主殿曲輪 西側石垣
この石垣は御主殿曲輪の西の端を画するものです。
残念ながら発掘調査はまだなされていない地域なので詳細は不明です。
■ 主郭北東 側壁(そくへき)石垣列
江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に「石垣・・・・・石垣」との記載があります。
上図でいえば赤で示したラインです。
ですが現在、石垣の存在が認められるのは下に示した3地点のみです。
八王子城落城の時点ですでに「石垣ライン」は完成していたのか、完成前に落城したのか、完成はしていたけれど発見されているものがこれだけなのか、結論は出ません。
■ 主郭側壁石垣列(終端)
この石垣は山頂部にある八王子神社への参道(登山道:新道のこと)の「二の鳥居」を前にして、すぐ右手にあります。
ここに立ってよく構造を見るとこれが「石垣ライン」の終端であることは容易にわかります。
2016年1月に、八王子市文化財課によって発掘調査が行われました。
これはそのときの写真なので、今見ると半分くらいは埋め戻されていて、だいぶ様子が違っています。
見ていただきたいのはこれは石垣列の終端部、すなわち隅角部を形成しているということです。
しかし、江戸の初期に全国的に作られた城郭の隅角部に見られる算木積みの技法は使われておらず、やはり戦国という時代の技術レベルに相応したものということになります。
■ 主郭側壁石垣列(金子丸)
この石垣は金子曲輪の北側壁にあります。
石垣の下一列には、しっかりと「アゴ止め石」が置かれています。
ここは手近な場所にはあるけれど見るのは難しいと思われます。
■ 主郭側壁石垣列(柵門下)
この石垣は2014年5月末に出現したものです。
正確にいうと、前から少し石垣が見えていたのですが、落ち葉、草木で長年積み重ねられ隠されていて、そこに立っていたカヤの大木が倒れ、その根元あたりが取り除かれて出現したというものです。
石垣の上下の分離帯にはしっかりと「犬ばしり」がしつらえられています。
現在は、人が立ち入ることにより崩落の危険性や歴史遺構の破壊も引き起こしかねないので「立ち入り禁止」になっています。
柵門跡下の登山道から覗きこむか、旧道から見とおせるように少し手を入れてありますのでそこから見上げるかして下さい。
■ 四段の石垣群
四段の石垣は戦国時代から埋もれもせずにむき出しのまま生きながらえてきた石垣群です。
「四段」というのはグループというようなもので、「段」というよりは「団」のイメージ(かたまり)です。
一段々々が複数の石垣で構成されています。
一段目は比較的たやすく見ることができます。
この写真で現したような「アゴ止め石」(下段水平の敷き石)が随所に置かれています。
■ 四段石垣:一段(団)目
四段石垣の一段(団)目です。
ご来城されて見学に来れるのはここまでです。
夏の時期は止めた方がいいです。草木が茂って見通しが利かなくなり石垣の微細な状態が見えづらくなります。
おすすめは冬の時期です。
ここも「アゴ止め石」がまず初めに、取り付きで見られると思います。
■ 四段石垣:二段(団)目
四段石垣の二段(団)目です。
ここは解放感ある中でも、横に大きく広がる石垣が見られます。
中央部水平に「アゴ止め石」は認められますでしょうか。
■ 四段石垣:三段(団)目
四段石垣の三段(団)目です。
これは縦の広がりを感じていただけるような石垣でしょうか。
さあ、まだまだ続きます。
■ 四段石垣:四段(団)目
四段石垣の四段(団)目です。
右に大きな石が見えます。誰が名付けたんでしょうか(もちろん現代のひとですね)。指揮台石と呼ばれています。
こんな大きさのものをここに据えたのは、かつて城普請をしている人々の特別の思い入れがあったのでしょうか。
■ 詰城北尾根 石垣・石塁群
詰の城を起点に北に延びる尾根(詰城北尾根)には延々と続く石塁と要所々々に石垣があります。
八王子城域の西端であり、日常の行動の中ではなかなか行けないところなので実際に目にするチャンスはないと思いますが、写真を通してご覧下さい。
■ 詰城北尾根 石垣北端部
詰城北尾根の北端に存在する石垣群です。
この地域では山梨側(西側)に面して複数の石垣状遺構が連なります。
ロープは踏査の目的で張ったもので、遺構をいためないようとの配慮と身の安全のためです。
終了後撤収してあります。
■ 詰城北尾根 石垣中央部
詰城北尾根の中央部に存在する石垣群です。
ここも山梨側(西側)に面して複数の石垣状遺構が連なります。
写真に示した以外にもこの右側にも展開し、穴太積(あのうづみ、穴太積み)かと思わせるような石垣です。
ここを境にして、上に向かうほど使っている石の大きさが小さくなります。
■ 詰城北尾根 石塁中央
詰城北尾根の中央部よりやや上に存在する石塁群です。
このあたりには石塁が連綿と続きます。
使っている石は下の方より小振りになっています。
■ 詰城北尾根 石塁上部
これは小丘状の構造を石塁が支えているものです。
詰の城が機能するためのなんらかの役割があったはずです。
縄張図からみるとここから左下方に小曲輪段が派生しています。
■ 詰城南尾根 石塁
これは「詰の城」を頂点として南側に下る尾根に作られた石塁です。。
八王子城山と富士見台を結ぶ登山道にあることから比較的簡単に見ることができます。
ただ、登山者は足元しか見ていないので気が付かないかもしれません。
■ 太鼓曲輪の石垣列
太鼓曲輪には尾根筋に沿って御霊谷側に面した石垣列(上図の赤ライン)があります。
太鼓曲輪は一般にはあまり立ち入らないエリアなので存在すら知られていません。
2〜3の石垣およびその痕跡を次に紹介しておきます。
なお、主郭側壁石垣列の場合は、江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」に「石垣・・・・・石垣」との記載がありますが、太鼓曲輪の石垣列は古図での記載はありません。
■ 太鼓石垣:第三堀切南
これが太鼓曲輪尾根の第三堀切の南側の尾根筋の御霊谷側に面した石垣列です。
使用されている石の長軸が水平に置かれているのが戦国八王子城の石垣の築き方の特徴でそれに則しています。
上は現在、太鼓曲輪尾根の登山道になっています。
■ 太鼓石垣:第四堀切東
太鼓曲輪の第四堀切の東側の尾根筋に突起状の小丘があります。
これを取り囲むように石垣およびそれを内側から支えた裏込め石と思われるものが存在します。
■ 太鼓石垣:第二堀切南
これは太鼓曲輪の第二堀切の南側の尾根筋の御霊谷側に面した石垣、というより、石垣を内側から支えた裏込め石と思われるものです。
表の石が崩れ落ち裏込め石が列状に現れているものです。
■ 八王子城の堀切遺構群
図に示したように八王子城域内には画面の右から左まで多くの堀切が作られています。
大ざっぱにいうと、太鼓曲輪の第一堀切(画面右端)は正面突破して来る軍勢の中で、太鼓曲輪を伝って攻めてくる軍勢を防ぐためのもの。
また、大堀切(画面左端)と第五堀切は甲斐側から攻めてくる軍勢を防ぐものと考えられます。
ですが、なぜその他にもこんなに多くの堀切を作ったのでしょうか。
■ 大堀切(八王子城西端)
大堀切は八王子城の作り込まれた城域としての西側の端に存在する堀切です。
400年以上の時空を超えて、むき出しのまま残っている削り込まれた岩肌を目の前にし、戦国の人たちと同じものに触れることができます。
さて、戦国の時、この岩の尾根を削り取って出た大量の石はどこにいったのでしょうか。
それを使って、詰城北尾根の長大な石塁や石垣群、詰城南尾根の石塁列が出来たのですよ。
この大堀切は八王子城山と富士見台を結ぶ登山道にありますが、登山者は足元しか見ていないのでその存在に気が付かない人も多くいます。
■ 馬冷し(堀切)
「馬冷し」と書いて、一般的にはコマビヤシと読みます。
戦国時代は要害部に置いていた馬の水飲み場だったとかいろいろ書く人がいますが、それはのちの世の人が書いたもので、見て分かる通り、堀切りです。
それはここのすぐ上にある「無名の曲輪群」との関係でみるとよくわかります。
「無名の曲輪群」は、要害部の東側の防御の要が高丸であるのに対し、それと対応する西側(甲斐側)の防御の要です。
要害部の東側に位置する高丸が「切り岸」の絶壁で敵の侵攻を防ぐのに対し、西側に位置する「無名の曲輪群」はこの馬冷しが防衛線となります。
ここから井戸(坎井:かんせい)の方に横切る登山道を、通説では「馬回し道」と呼んでいますが、これは現代の人が付けた名前ですね。
この堀切りが甲斐側からの攻め手に対し、「無名の曲輪群」の防衛線として戦うとき、どうして敵をスルーさせる道をあえて作る必要があるのでしょうか。
むしろ敵が横に(東側の松木曲輪方面に)侵攻するのを防ぐのなら、竪掘りこそ必要です。
■ 太鼓曲輪:第一堀切
太鼓曲輪尾根に五つある堀切りの中の一つ目です。
この堀切りは正面突破して来る軍勢の中で、太鼓曲輪を伝って攻めてくる軍勢を防ぐためのものと位置されます。
規模は大きいです。
■ 太鼓曲輪:第二堀切
太鼓曲輪尾根に五つある堀切りの中の二つ目です。
城跡見学の面から考えると、八王子城域内の堀切りで最も体力を使わずにリアルな戦国を味わうことができるものです。
ですが決して楽に行って見られるということではありません(裏を返せば他の堀切りを見ることがいかに大変かということです)。
石の尾根をくり抜いた堀切りですが規模は小さいです。
■ 太鼓曲輪:第三堀切
太鼓曲輪尾根に五つある堀切りの中の三つ目です。
規模はかなり大きなものです。
御主殿曲輪の土塁に上がり太鼓曲輪尾根を見上げると、ちょうど正面の樹木の間にスリットがあるように見えるのがこれです。
■ 太鼓曲輪:第四堀切
太鼓曲輪尾根に五つある堀切りの中の四つ目です。
規模は第二堀切同様小さいです。
ここも岩を削り取った堀切りです。
■ 太鼓曲輪:第五堀切
太鼓曲輪尾根に五つある堀切りの中の五つ目です。規模は大きい方です。
ここは大堀切と同様に甲斐側から攻めてくる軍勢を防ぐものと考えられます。
尾根の上側(甲斐側)から見たときに特にその大きさが感じられます。
■ 八王子城の空掘群
八王子城にも空掘りは、横堀り、竪掘り(たてぼり)、合わせていくつか存在しますが、他の城できれいにリメークされているものを見るとき、ここのものは粗野なものであると感じられます。
そういう事情を反映してなのか八王子城には、ちゃんとした名前のついた空掘りがありません。
まあ、それでも江戸の初期に全国一斉に作られた城の水掘りに対し、ここは戦国の空掘りです、と教科書的に見て感じるのもいいのではないでしょうか。
ただ、谷合いの流れ落とされた筋を見ると、これも竪掘、あれも竪掘、と言う人がいますのでご注意を!!
■ アシダ曲輪 横堀
「アシダ曲輪 横堀」はまず手っ取り早く目にする戦国遺構、空掘りです。橋は昭和になってから架けられたものです。
居館地区(アシダ曲輪や御主殿曲輪など)に侵攻してくる敵軍を、正面に対峙して防御するという意味で横堀りです。
これは空掘り区分、横堀り-竪掘り、の対比の中の横堀りです。
アシダ曲輪の横にあるから「アシダ曲輪 横堀」と見出し付けしたのではありません。
空掘りが自然地形の谷(沢)なのか、はたまた堀なのかを判別する仕方は、発端部で突然切れ込みが始まっているのか、自然の沢などが上方にあってそれが流れ落ちてきているのかを見分けるのがポイントです。
■ 大手門前(横堀)
これは大手門の眼前に横たわる空掘りです。
あきらかに自然地形ではない空掘りの跡が認められます。
大手門に向かって、今はまだ整備されていない東側下方の大手道沿いから、正面突破してくる軍勢に対峙するという意味で横堀りです。
ただ、右側(山側)、2/3くらいは土石流崩れによる土で埋まっているのが残念です。
■ 大手道太鼓曲輪側(竪堀)
これが竪掘りと説明されています。
しかし、1990年、それまでに発掘されたものを復元する作業の中でこの形になったものなので、戦国の時、谷筋はあったと思われますが、明確な竪掘りだったのかは分かりません。
イメージとして次を参照してみて下さい。
これをクリック(PDF)
■ 御主殿曲輪 東側壁(横堀)
御主殿曲輪の東の側壁を形作っています。
かなり深い堀なのですが、写真の左下隅から突然、谷が始まっています。
きれいに整備してあげれば印象深い空掘りになると思われます。
御主殿曲輪に正面から攻撃してくる敵軍に対峙して防御するという意味で横堀です。
ここは地権者との関係でガイドと一緒でないと入れないエリアなので、見ている人は少ないと思われます。むしろ下の林道から見上げる方が簡単です。
■ 八王子城の土塁群
八王子城には土塁はたくさん見うけられますが、純粋に戦国のものかというと、真贋(少し贋が)入り混じっています。
まあ、何はともあれ見ていきましょう。
■ アシダ曲輪 土塁
ここに斜めに横たわっている土塁は、戦国ほんまもんです。
贋というほどのことではないのですが、この先に土塁を切りこんで、階段を付け、門柱を建て、戦国遺構を変形させています。
この点がおしくも「贋」です。
ですがこの曲輪が、土塁でぐるーっと囲まれている様は必見です。
■ 大手門横 土塁
これは正真正銘、戦国ほんまもんです。
もちろん杉は第二次大戦後に植えたものです。戦国当時は柵列でもあったでしょう。
正面突破(画面右側から)して攻撃してくる敵軍に対し、防御するためのものです。
■ 御主殿曲輪 土塁
これは真贋でいうと「贋」ですね。
ここは戦国の時、山側を削り(切土)、谷側(城山川)に盛り土(盛土)して作られた人工的な台地です。
なので、江戸時代の初期(慶安の古図が描かれたとき:1648年)以降のいつの時期かに、東南側が土石流で流し落とされたものを、1990年の、発掘後の復元に向けた作業の中でこの形にしたものです。
それでもこの場所に立ち、戦国の攻防のリアル感を味わうことができます。
■ 御主殿曲輪 西側土塁
これは御主殿曲輪の西の端を画するものです。
残念ながら発掘調査はまだなされていない地域なので詳細は不明です。
■ 搦手道 上端土塁
現在の搦手(松竹)側の登山道の上端、もっと正確にいうと、心源院からの尾根(大六天経由)の松竹登山道との「T字」に合流する手前にあります。
これを次の項の「高丸土塁」と縄張図でたどると、一直線に配置されます。
これの上っ面(うわっつら)は岩です。それでも土塁と言うのかって?
■ 高丸 土塁
右には急峻な「切り岸」、左には削って平地(ひらち)にした多数の小曲輪群。
作り方としては、土を盛った土塁ではなく、右側を削り落し、左側も削って、残った部分がこの土塁です。
これを上の項の「搦手道 上端土塁」と縄張図でたどると、一直線に配置されます。
■ 八王子城跡関連情報 (References)
以下、八王子城跡に関する用語や情報をランダムに記載します。
まず、上の写真は八王子城跡ガイダンス施設です。ご来城の際にはぜひお立ち寄り下さい。
おすすめは北条氏照公と小田原北条(後北条ともいう)についてまとめた6分間のビデオです。
これでひととおりの情報をインプットして、城跡ツアーにのぞむことができます。
■ 居館地区
居館地区は八王子城山の南麓に位置し、石垣や土塁などで形成された大型の曲輪(くるわ)群で構成されます。
その中心は御主殿曲輪で、その中で核になるのは北条氏照公の御主殿です。
今でいえば本社機能がびっしりと詰まった地区ということになります。
■ 要害地区
要害地区は八王子城山の山頂部、すなわち、山頂曲輪(いわゆる本丸跡)を中心として山塊部を切り崩して平地(ひらち)を作り形成した曲輪群で構成されています。
さらに城域の西端の詰の城まで展開する防御機構の全体が要害部です。
山頂部では陶磁器などの遺物の発見はあるものの遺構は検出されていません。
戦いに備えた兵糧が備蓄された建物などがあったと考えられます。
この山頂部には戦国当時二ケ所の井戸(坎井:かんせい)もありました。
■ 根小屋地区
根小屋地区は関東平野が終わりそこから山地がはじまる最深部、居館地区の下に展開する家臣団の住居があった地区です。
区割り状の遺構、掘立柱建物跡、井戸などが確認されています。
■ 太鼓曲輪地区
太鼓曲輪地区は、要害部から御主殿地区を挟んで城山川の対岸に対峙する尾根に形成されています。
ここには第一〜第五まで合計5つの掘り切りがあります。
各堀切は、430余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を残しています。
■ 御霊谷地区
御霊谷(ごれいや)地区は太鼓曲輪の東端と南側の台地に位置していて、城域の東南端を画しています。
八王子城の南側の守備のための施設の存在が確認されています
■ 八王子城跡 管理棟
八王子城跡管理棟は城跡をめぐる起点となるものです。
オフィシャルガイドの詰所があります。
また、トイレも完備されています。
■ 城山川
城山川は、富士見台を頂点とし左に小仏関所跡に下る尾根、右に詰の城・八王子城要害部に下る尾根、それらの山稜を源流とし、その山襞(やまひだ)から水流を集めて川の流れを成しています。
そして御主殿地区を流れ抜けます。
■ 大手門跡
1990年の復元に向けた作業の中でこの大手門跡も発掘調査が行われました。
その中で礎石や敷石などが出現しましたが現在は埋め戻されています。
ここの場合、1990年の復元に向けた作業の中でという条件があったことなどから、大手門全体の1/3程度の調査に終わっています。
■ 大手道(古道)
大手道は現在は大手門から曳橋までの間で復元されています。
ですが、実際には大手門より東方に下っていく戦国の道跡が残っており(写真の右上奥方向)、それらは民間の土地にあることから、発掘など解明はなされていません。
「古道」は八王子城跡特有の表現で大手道と同じ意味です。
現在の大手道の曳橋側に近い方の半分くらいは(まさにこの写真あたりから左前方)、実際に存在したものよりかなりかさ上げされて通っています。
■ 曳橋
「曳橋」は八王子城跡特有の表現で一般に使用されている「引き橋」と同じ意味です。
敵が攻撃してきたときに引いて取り外し敵の侵攻を阻止することを目的として構築されました。
御主殿曲輪の土塁に登って、眼下の城山川にかけられた曳橋が取り外された状態を考えるとき、強固な防御が発揮されることを想像してみて下さい。
もちろん今架けられている曳橋は現代になって観光用に作られたもので、下の林道をクレーン車などの作業車も通れるよう高い位置に架けられています。復元を意図したものではありません。
戦国当時はもっと粗末なものだったはずです。
■ 虎口
虎口とは城や武家屋敷の入り口、曲輪の出入り口を表します。
石垣の角や要所の目立つ場所には大きな石(鏡石)が置かれています。
■ 石段
この石段は、1987年(昭和62年)から行われた発掘調査で出現したものです。
虎口と御主殿曲輪の入り口である冠木門の間には2つの踊り場があり、この写真は下の方のものです。
ここには櫓門が存在したことを強く示唆する4つの大きな建物礎石があります。
■ 台所門
台所門は江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」にもその記載があり、「臺所門」と記載されています。
八王子城の御主殿への登城道は、「大手道(古道:八王子城特有の表現)」とアシダ曲輪の上辺を通る道の2つのルートがあります。
後者が根小屋地区とこの台所門を結ぶ道ということになります。
■ 御主殿の滝
天正18年(1590年)6月23日(旧暦)、落城の日、前田利家、上杉景勝の連合軍に完膚ないほどに攻め上げられ敗色濃厚の八王子城勢は、ご婦人方が次々に自刃しこの御主殿の滝下に身を沈め、そののち三日三晩、この川は血の色で真っ赤に染まっていたといわれてます。
現在は周辺の植生の変化による影響を受け、滝の水量は少なくなる傾向にあります。
■ 池跡
2013年の発掘調査により新たな特筆すべき遺構が出現しました。
これは池を中心とした池泉回遊式の庭園です。
しかも、池の縁(ふち)には三尊石など石組のアレンジメントがふんだんに配置されたものです。
戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高いものです。
ベネチア製のレースグラスの出現や、当時の唐や国内から調達された多数の陶器などの出現と相俟って、八王子城のクラスは小田原の支城としてのレベルをはるかに超えたものです。
■ 八王子神社
八王子神社は山頂のすぐ下の「中の曲輪」にあります。
氏照公が八王子城の築城にあたり八王子権現(神社)を城の守護神としたものです。
城跡管理棟前から山頂へ向かうメインの登山道は、この八王子神社に向かう表参道ということになります。
■ 坎井(かんせい)
戦国時代、山頂部には2つの井戸(坎井:かんせい)がありました。
1つは八王子神社の左横、現在も当時の井戸の跡があります。
これは「慶安の古図」(1548)にも、松木曲輪と小宮曲輪の間の平地(ひらち)に、井戸(水)の存在が明確に描かれています。
現代の表現でいえば場所としては「中の曲輪」にあたります。
もう1つの井戸はそこから詰の城方向へ登山道を百米ほど下ったところの右側にあります。現在はそれに手押しポンプが付けられていて水枯れの時期以外はしっかりと水がでます。
なお、ガイドグループがここの水の水質を検査機関に依頼して調査してもらったところ飲料として「不適」との結果が出ています。したがって飲むことはNGです。
■ 清龍寺の滝
八王子城の搦め手(裏手)にひっそりと眠る清龍寺の滝です。
八王子城山の山頂に向かう道はいくつかありますが搦め手側には陣馬街道沿いにある松竹橋からスタートする道があります。
住宅街を通り抜け城山登山道の起点の表示を過ぎ5分くらい進むと右手に清龍寺の滝への分岐の表示が出てきます。
渇水期には巨大な岩盤を見るだけとなります。雨の降った翌日とかが確実です。
■ アサギマダラ
八王子城山はアサギマダラの聖地です。その幼虫が好んで食べる鬼女蘭(キジョラン)が城山の東南斜面を中心に下から上まで自生しています。
アサギマダラは春にはここで飛び交い、真夏は暑さを避け山梨の御坂山地などの涼しいところに移動し、秋に裏高尾から小仏城山、そしてこの八王子城山あたりに戻ってきます。
11月はじめ頃までに鬼女蘭の葉の裏側に卵を産み付け、南方(沖縄や台湾か)へと渡っていきます。
産み付けられた卵は翌年、正月を過ぎるころから幼虫になり、八王子城山にふんだんに自生する鬼女蘭の葉を食べ、さなぎになります。
やがて春になると蝶にかえり、親と同じことを繰り返します。
■
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天守閣はいずこに ?
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御主殿
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会所
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八王子城の曲輪(くるわ)群
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金子曲輪
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柵門跡(せり出し部)
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山王台(せり出し部)
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山頂 帯曲輪
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太鼓曲輪
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御主殿西尾根 肩の曲輪
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八王子城を構成する石垣群
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八王子城石垣 最初の一歩
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御主殿の滝 横の石垣
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アシダ曲輪 南面石垣
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御主殿曲輪 東側壁石垣
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御主殿曲輪 西側石垣
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主郭北東 側壁石垣列
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主郭側壁石垣列(終端)
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主郭側壁石垣列(金子丸)
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主郭側壁石垣列(柵門下)
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四段の石垣群
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四段石垣:一段目
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四段石垣:二段目
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四段石垣:三段目
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四段石垣:四段目
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詰城北尾根 石垣・石塁群
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詰城北尾根 石垣北端部
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詰城北尾根 石垣中央部
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詰城北尾根 石塁中央
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詰城北尾根 石塁上部
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詰城南尾根 石塁
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太鼓曲輪の石垣列
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太鼓石垣:第三堀切南
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太鼓石垣:第四堀切東
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太鼓石垣:第二堀切南
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八王子城の堀切遺構群
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大堀切(八王子城西端)
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馬冷し(堀切)
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太鼓曲輪:第一堀切
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太鼓曲輪:第二堀切
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太鼓曲輪:第三堀切
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太鼓曲輪:第四堀切
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太鼓曲輪:第五堀切
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八王子城の空掘群
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アシダ曲輪 横堀
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大手門前(横堀)
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大手道太鼓曲輪側(竪堀)
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御主殿曲輪 東側壁(横堀)
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八王子城の土塁群
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アシダ曲輪 土塁
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大手門横 土塁
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御主殿曲輪 土塁
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御主殿曲輪 西側土塁
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搦手道 上端土塁
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高丸 土塁
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城跡関連情報 (References)
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居館地区
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要害地区
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根小屋地区
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太鼓曲輪地区
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御霊谷地区
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八王子城跡 管理棟
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城山川
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大手門跡
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大手道
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曳橋
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虎口
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石段
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台所門
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御主殿の滝
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池跡
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八王子神社
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坎井(かんせい)
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清龍寺の滝
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アサギマダラ
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