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Official Guide

オフィシャルガイドの会

見出しHEADLINE

■ 姉妹都市間マンホール蓋交換式


北条がつなぐ絆 姉妹都市友好の証

八王子いちょう祭り メイン会場にて北条関連三都市都市間で下水道マンホール蓋の交換式が行われました (17/11/19)。
交換式では、八王子城跡三ッ鱗会と鉢形城三鱗会の武者隊の協力により、北条氏政、氏照、氏邦に扮装した甲冑武者から三都市の首長に証書と記念パネルが渡されました。
このマンホール蓋は実際に各都市で使用されているものと同じデザインで、カラーで彩色されたものです。
八王子市では八王子城跡管理棟前の道路に設置されています。


(いちょう祭りの主催者側を代表して、石森八王子市長がご挨拶)


(証書と記念パネルの交換を終え記念写真撮影です)


(交換した各都市の1枚ずつを街のしかるべきところに設置するということです)


城跡管理棟前に設置されたマンホール蓋、だが待てよ・・・・・

小田原市は市内の「かまぼこ通り」に設置というからかなりの繁華街のようです。
それに対して八王子市はなんとまあ、こんな山深いところへ。
しかも設置が天地逆ではないか!!
ようこそ、ウェルカムではなくて、とっとと帰って、っということか。


(天地逆だよ。霊園入り口までチェックしたら横(左右)斜めもあった)





■ 八王子城と滝山城がコラボして写真展を開催

高尾599ミュージアム特別展示室にて開催

この特別企画、写真展示会は高尾599サイドの発案、構成によるものです。
期間は17/11/06〜11/12日までの一週間で行われました。
八王子城側のものは20点展示で、いずれも当HP編集局(Fuma Project)が提供した写真データ30余点から、高尾599サイドが20点にセレクトしA1版縦型にパネルを作成したものです。
会場もパネルもとても豪華で、ずいぶんとお金をかけてくれたなと感謝しています。
最終日の11/12(日)にはNPO八王子城跡三ッ鱗会メンバーによる甲冑着装体験もありました(二項目に記載)。


(2Fの特別展示室に誘導するしっかりとした案内表示が準備されていました)


(これが八王子城の展示区画で衝立の奥が滝山城の区画です)


(八王子城のこの字「コ」の区画の反対側です。この期間だけ、っていうのはもったいないです)


八王子城跡三ッ鱗会による甲冑着装体験

八王子市制施行100周年記念提案事業のひとつして、元八王子地区連合町会が作成した甲冑(10/9御主殿でお披露目)の展示と、別途準備した甲冑での着装体験が行われました。
高尾山一帯は紅葉のシーズンで、とくに土日の高尾599ミュージアムは来場者も多く、1Fにしつらえた甲冑体験コーナーも希望者が引きも切らず状態でした。
ちなみに、前日の土曜日(11/11)は滝山城が甲冑着装体験を同じコーナーで行いました。


(これもしっかりとした案内表示、八王子城跡では表示ひとつでも、予算が・・・と)


(朝一番で欧米系と日本女性のカップル。一日トータル10組の外国組の、女性はすべて日本人、逆はないのか!! 日本男子どうした)


(こんな感じで、試着待ちの人は列をなしていました)


(家族みんなで、エイエイオー)


(おっ、こちらは女性グループ、見事に決めポーズです)


(せっかくだから「高尾599」の外に飛び出し、みんなに見てもらいましょう)





■ 特別講演「北条氏照の八王子築城をめぐって」が開催

第6回「北條氏照まつり」のプレイベントとして、特別講演「北条氏照の八王子築城をめぐって」が城跡ガイダンス施設で開催されました(17/10/21)。
講師は八王子市文化財保護審議会副会長の加藤 哲(あきら)さんで、豊富な資料をもとにした明快な解説をしていただきました。

[1] 氏照の由井領支配開始
[2] 武田信玄の関東遠征と氏照
[3] 御館の乱と北条氏照
[4] 八王子城と戦国の終焉

台風21号が明日にも関東を直撃しようかという強雨の日に、山深いこの地まで次々に駆けつける聴講の方々(60名ほど)の熱意に、共感と感動をおぼえました。


(淡々とした口調の中にも文書(もんじょ)に基づいた適切な解説)


氏照の由井領支配開始

長尾景虎(のちの上杉謙信)の冬になると雪のない関東に出稼ぎのようにやってくる軍勢、その帰国後、北条勢は青梅の三田氏を攻め滅亡させ由井領支配を開始した(1561年)。


(講演に沿う形で、当HP編集局(Fuma Project)が撮影・編集した)

そののち、氏照が養子入りし居城とした由井(浄福寺)城から、やがて滝山城へ移城。


武田信玄の関東遠征と氏照

1568年、武田信玄が駿河に侵攻したことにより「駿甲相三国同盟」の崩壊。
1569年、信玄は秋川、多摩地区を経由し小田原侵攻。その途中で滝山城を攻撃。
通説として、このとき武田軍に滝山城の二の丸手前まで攻め上げられ、それを反省としてより強固な城、すなわち八王子城の築城を考えたとなるのですが加藤先生は、氏照が謙信の重臣に宛てた書簡を引用し、氏照軍が果敢に敵軍を切り崩したと紹介してくれました。
通説は江戸時代に書かれた「甲陽軍鑑」によって立つもので、アナウンス力の強いものが勝っているということで、この通説は完全には信用できない、としています。


御館の乱と北条氏照

上杉謙信の死後、二人の養子の間に跡目争いが勃発、北条方からの養子景虎は敗北、自害。
このとき武田勝頼が、上杉景勝を支援したことから北条方は「相甲同盟」があった武田方と絶縁、そののち北条側は武田氏と対抗するため氏照が中心となり織田信長と同盟交渉を開始した。
1582年、本能寺の変。織田信長自害。


(この講演の間も外は強い雨で、御主殿の芝は当日朝までにイノシシが掘りまくった跡でいっぱい)


八王子城と戦国の終焉

八王子城築城の開始時期は1582(天正10)年以降、根拠として、間宮綱信(信長との交渉に氏照の使者として安土城を訪問した)らに、八王子城の築城普請にについて強く指示した書状がこの年にある。
八王子城への移城時期は1587(天正15)年以前、狩野一庵が八王子城に在城しながら記した書状がある。

1589(天正17)年、名胡桃(なぐるみ)城をめぐる「関東惣無事令」違反を理由にした豊臣秀吉の北条に対する宣戦布告。

1590(天正18)年、八王子城落城。

攻め手の前田利家側に残された書簡の中に八王子城の戦い、八王子城の構えの記載があり、それらの中から激戦の姿や八王子城の構造をかいま見ることができる。


(主催者・規模は違っても何回かで、北条の創成期から始まり末期まで、講演、感謝です)


氏照はなぜこの期に及んで山城を造ったか?

先生の解説として、小田原本城が陥落したとき(後北条の旗印を守り=筆者記)少人数でも強固に守ることができる城として八王子城を造ったのではないだろうか。
小田原北条家(後北条)で主戦派、和睦派が対立する中で、主戦派No.2としてのプライドをかけた(=筆者感想、No.1は氏政)。

本当に丁寧な解説、どうもありがとうございました。




■ 八王子城甲冑お披露目会

八王子城武者甲冑づくり実行委員会が、出来た甲冑のお披露目会を八王子城跡内御主殿曲輪で催しました(撮影:17/10/9)。
八王子市制施行100周年記念提案事業のひとつして、元八王子地区連合町会が提起し、年を越えて作業を進めてきたものです。
当日は石森八王子市長も参加され大変意義のあるものとなりました。
記念の集合写真のあとは、八王子城武者隊による槍の舞い、鉢形城の皆さんによる居合切りなどのアトラクションがあったのち、城跡ガイダンス施設まで武者行列を行いました。
これから秋の甲冑イベントが続きますが、その前のプレイベントでしょうか。


(通常、早朝は静寂な御主殿曲輪が、なんやら早くからにぎやかでした)


(作った甲冑はあらかじめ着ていただく武将を想定したものです。ここで一挙掲載)


(石森市長、お忙しい中こんな山深い八王子城まで、ありがとうございます)


(さあ、ここで集合写真です)


(アトラクションタイム。まずは八王子城武者隊による槍の舞い)


(次は鉢形城隊の皆さんによる居合切り)


(そして星槎高校の皆さんによる和太鼓合奏)


(最後はやっぱり鬨の声、エイエイオーです)


(城山川沿いの道、曳橋をくぐり抜けながら目的地まで行軍します)


(落城のときの中心「比佐御前」と、今の城跡の保護活用のキーマン行政のKNK氏のツーショット)

フォトフォルダーは右をクリック 甲冑お披露目会



■ 城跡の今後に最大の影響を与えるメンバーのツアーです

八王子城跡の今後にきわめて影響をもつ、城跡の保存・活用のプラン策定会議のメンバーが城跡内のツアーを行いました(撮影:17/6/12)。
この会議体の正式名称は「国史跡八王子城跡保存整備基本構想・基本計画策定検討会」で、八王子城跡の今後、5年、10年、さらにはそれ以降の城跡の在り方を左右する大変重要な会議体です。
メンバーは、研究者の先生方、住民から選抜された方々、行政側から事務局として八王子市文化財課、の三者で構成されています。
今回のツアーに同行して取材した内容、サードパーティが行っている季節ごとの来城者のアンケート調査の内容など、興味深い内容はたくさんあるのですが、いずれ行政側から報告書が出されるはずですのでそれまでお待ちをということになります。


(まずは今年の3月にリニューアル成った城跡管理棟を見ていただきました)


(事務局サイドからの城跡内の説明をもとにツアーが進みます)


(城跡のメインスポットのひとつ、城山川の対岸に28年前に発掘復元された石段・石垣)


(御主殿曲輪、これは4年前に発掘された池と回遊する庭園跡です)



■ 視覚障害者と山城の自然を愛でる

東京を中心として結集した、ハンディを持つ人たちを支えながら自然を愛するというグループがやってきました(撮影:17/4/8)。
視覚障害者と一緒に山歩きを楽しむ会「六つ星山の会」というのだそうです(ご了解の上、名称を記載しています)。
総勢9名で多少小雨っぽい天候にもかかわらず皆さま準備万端、城跡管理棟前からスタートです。
大手道を通り虎口から石段を登り御主殿へ、ひとわたり見学したのち台所門から金子曲輪に近道で抜け山頂部をめざしました。
この間、430年前の石段を踏み上げ、鳴き方の練習を始めたウグイスの声を聞きながら、サポートの方たちとのかけ合いが見事でみんなスイスイ登りました。
我々も精いっぱいボランティア活動をしているつもりでしたが、もっと別のやり方で素晴らしい活動をしている方たちもいるものだと感心しきりでした。


(リニューアル成った管理棟前で、朝一番の声出しなそうです)


(430年前の戦国の石段を踏み、歴史の重さを感じてもらえたようです)


(あいにくの天気でした。ここは金子曲輪、霧の向こうは太鼓曲輪尾根)



■ 城跡管理棟リニューアル

城跡管理棟の改修工事が終了しガイド詰め所が元の場所に戻ってきました(撮影:17/4/1)。
外観は山城の雰囲気を出すため自然のスギ材を使用したということです。
大きな改修ポイントは、トイレの拡充です。
さあ、早速、信州真田から祝福のため馳せ参じた武者がいましたよ。
ご当人は「真田源次郎信繁」と名乗り完全に成りきっています。
当城本丸までもこのスタイルで登ってきました。
百名城もこのスタイルで制覇するそうです。すごい意気込みですね。


(リニューアル成った管理棟。我々ガイドの拠点です)


(長野市松代町から来られたSZKさん。ということは信繁と名乗りながら江戸期の真田か)


(法螺貝を手に石段に立つ信繁公。ご案内したガイドのKRY氏からのご提供)



■ 本年度(H28)の発掘調査が行われています

今回の発掘は金子曲輪の下に連なる馬蹄段の最下部を探ろうというものです(撮影:17/2/17)。
去年(2016)はその筋の右側に位置する石垣列の最下端を調査しましたが今回はそのすぐ上です。
このような作業を地道に上に攻め(発掘)上げていくことによって、この筋の全体像が描出できるのではないかということです(八王子市文化財課KNN氏談)。


(左端が山頂部の八王子神社への参道の二番目の鳥居)

今回の作業風景です

今回の発掘は17/2/6(月)からの週に行われました。
我々が通常馬蹄段を見ているのは、下の写真の登山道と書かれた左側あたりから金子曲輪にかけてです。
今回の結果は、残念ながらそのあとブルーシートで覆われてしまいましたので現状を覗き込むことはできません。
これから行政サイドがまとめる報告書を待つことになります。


(ここは人の手が入った平地があるようです)

普通に見られるのはこの馬蹄段です

金子丸(曲輪)のすぐ下のあたりにあります。
本丸に向かう登山道を登って行くと左手に連続して認められます。
また、江戸時代の初期に描かれた「慶安の古図」にもこの馬蹄段は明確に記載されています。

参照は次をクリック 慶安の古図


(金子丸の下の馬蹄段。7段ほどが認められます)

今回の発掘調査の位置確認です

今回の発掘は下の図の赤い丸です。
ちなみに、去年はオレンジの丸の部分でした(石垣列の最下端)。
この石垣列でいうと、2014年5月に柵門跡下に新たに石垣群が出現してきました。
これは下の図の緑のラインに乗っかります。
慶安の古図にもこのラインに「石垣・・・・・石垣」と記載されています。
ということはこの古図が描かれた当時はこの緑のライン上に石垣が見えていたということになります。
今後この発掘が、緑のラインに沿って上がっていくのが楽しみです。

参照は次をクリック 柵門跡下石垣


(八王子城縄張り図に今回の発掘調査の位置づけを表記しました)




■ ガイド休止がありながら梅花は早めです

今冬は降雪やその気象予報による早めの対応で「ガイド休止」がこま目に行われています(17/2/11)。
2/11(土)もガイド活動が休止でした。
東京で雪になるか雨かは1℃のわずかな違いで分かれます。
八王子市中央部では雨でも城跡に向かって車で進むと、宗関寺を過ぎるあたりから周りが雪景色に変わるというような情景がよくあります。
ガイダンス施設の標高は232m、御主殿曲輪になると比高差が40mほど上がって267m、ちなみに八王子城山々頂は461mです(標高は堀籠 隆 氏、八王子城精密ルートマップ2016 より)。
もうひとつ城跡が雪に弱いように思われるのには駐車場が関係します。
現在はメイン駐車場の背後、ガイダンス施設に隣接した部分に臨時駐車場も整備されています。
すべて整然と広大で無料です。
でも日常生活の緊急性がないので除雪車の対象とならず、もし雪が降っても雪解けを待つということになります。
一方、ガイド休止でもガイダンス施設は利用可能で、ほっこりとした空間を提供しています。


(ガイド休止とガイダンス開館中の案内。撮影:17/1/21)


今年の梅花は早めの進行です

八王子城跡の梅林は山頂部に向かう金子丸(曲輪)のすぐ下のあたりにあります。
今年は開花が例年より早く、年明け早々から咲き始めました。
ここでは開花時期をずらして多様な品種が植えられているので3月下旬まで楽しめます。
おすすめは晴れた日の午前中です


(金子丸の下、梅林谷。撮影:17/2/4)



■ 今が山城めぐりの好機です

草木が枯れて山襞(ひだ)に遺構がはっきりと姿を見せてくれる今が戦国山城探訪の好機です(17/1/18)。
それに加え、空気が澄んでいるので展望スポットに立つと関東平野が自分のものになったように思えてきます。
北条氏照公もきっとここに立って、この地に城をつくることへの思いを強くされたのだと思います。

ちなみに、東京スカイツリーは正面遠方、新宿ビル街の左手にあります。
また、東京タワーを探すときは六本木ヒルズが白く平らべったく見えますので、そのすぐ右側にシャープペンシルの芯を突き出したように見えます。


(9合目上の見晴らし道から関東平野を一望。撮影:16/12/24)


地図と対比してポイントを確認

この場所に立つと「御陵はどこですか」とかよくきかれます。
下に国土地理院の地図に上の写真と同じスポット名をふっておきましたので比べて見て下さい。

御陵(天皇家の多摩陵)は手前の霞ヶ丘団地の街区の家並みの通りを伸ばした突き当たりにあります。


(国土地理院3D地図に各名称を付記しました)



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