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八王子城 公式ガイド
公式ガイド
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連郭式城館 弐分方城を発見 !!
新たに連郭式城館 弐分方城を発見しました(掲載:24/12/12)。
場所は滝山城と八王子城を結ぶラインの中間からやや八王子城よりで、八王子市域の平野部(八王子盆地)と元八王子丘陵を区切る段丘の縁(へり)にあります(下図赤矢印)。
これまでこの城に関する伝承がなく名称がないことと、当時の弐分方(にぶかた)の村びとたちが目の前のお山(お城)を畏敬をもって見上げながら暮らしていたことを思い描き名称を弐分方城としました。
2023年9月、東京都が公開した赤色立体地図の活用により、中世城郭の遺構の探索は新たな展開が始まりました。
北条氏照が滝山城主の時期の高尾山薬王院文書などにある「八王寺(子)番」(下PDF参照)にあたるものを、この赤色図を応用して探し当てようとスクリーニングした結果、見い出したのが弐分方城です。
なお、この記載では中心部の「くるわ」を八王子城や滝山城などで使用している「曲輪」を使用せず「郭」の文字を使用しています。城のタイプを連郭式城館としたことから字づらを合わせたためです(連郭式の解説はこの記事の末尾に掲載)。
この記事は当HPの編集部(風魔 Project)の責任で作成しています。
薬王院文書・並木文書から八王子番を推定
八王子市郷土資料館:編「八王子城」令和6年(2024)年版
頁:15-16。(参照は左ボタンをタップ)
操作の概略を記載します。
PC上で編集アプリを使い、下に大正地図、上に赤色地図を重ね合わせます。
このケースでは上(のレイヤー)の赤色図の透過度を0~100%でスライドさせ、宅地などの利用がないエリアで遺構らしきものをスクリーニングしていきます。
その結果あぶり出された(スクリーニングした)場所(弐分方城)を赤矢印で示しました。
なお、左図は赤色図のレイヤーの透過度を60%にしたときの画像です。
大正地図:
大正10年測図 1/25000地図。大日本帝国陸地測量部:発行
JPEG:1.91MB。(参照は左ボタンをタップ)
【弐分方城の縄張り図】
今まで踏査した結果をまとめ左のように弐分方城の赤色立体縄張り図を作成しました。
拡大表示は
をタップ。
上とまったく同じ位置での航空写真です。
1979-83年撮影。Kenzkenz氏提供。
拡大表示は
をタップ。
【弐分方城の構造】
弐分方城は頂部に主郭ー副郭ー側郭を配置し(下PDF参照)それらは空掘り・掘切で区切られて連郭式城館を構成しています。
この東西の連なりを以下、連郭部と記載します。
連郭部の北側は、あとの考察の項で述べるように戦国当時とは違って、現在は急峻な斜面が下ります。
これに対し南側はいわゆる「段切り」され(下PDF参照)、段切り状の階層構造で下ります。
戦国当時の登城ルートは城館の北側の下から見上げて、「つ」の字の書き方を逆になぞるように進み一番奥の虎口(主郭北東部)に至ります。
今回の報告では明瞭な遺構が多く残っている連郭部と、現代になってから崩落が進んだ北側斜面でかろうじて持ち堪えている腰曲輪や寸断されながらも生き残っている登城道などを取り上げます。
中世の城の構造とパーツの解説:
新八王子市史:中世[資料編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:828。(参照は左ボタンをタップ)
段切り状遺構:
新八王子市史:中世[資料編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:827。(参照は左ボタンをタップ)
【弐分方城の各部紹介】
これは側郭の北側の登城道です。
遺構としてしっかりと残っています。
写真の右側の一段上になっている平場が側郭です。
赤色縄張り図の登城道(弐分方道)と記載された踏跡とここまでの間の登城道は崩落によって消失しています。
主郭の北側斜面に存在する腰曲輪です。
左上の空が透けて見える位置が主郭で、その比高差は6mほど(目視)です。
右奥と左はそれぞれ登城道となっています。
ここだけが崖にせり出していて広い空間になっています。
出入りをチェックする改所とかの施設があったと推察されます。
虎口です。
ここまで続いた登城道の終端で東側(写真では正面から左へ)は土塁で形造られています。
歩を進めると右に旋回し、おのずと主郭に誘導される構造になっています。
これが主郭です。
ほぼ長方形をした削平地で急峻な段丘の頂部にあります。
段丘の北側下には弐分方の村落が展開し(戦国期)、現在の八王子の市街部の平野をはさみ滝山城と相対する位置にあります。
連郭部は大正図や、太平洋戦争前から現在までの航空写真で検証しても建屋などはなく、桑畑などに利用された形跡もありません。
もしかしてこの場所は小田原北条滅亡後、村びとが立ち入らないスピリチュアルな領域、あるいは天正18年(1590)の悲劇にふれたくない忌嫌う領域として放置されたのかもしれません。
主郭の南西側の法面(のりめん)、縄張り図の通用口の横には石造りの小社(やしろ)が置かれています。
初見時には本体部が上下逆転で、屋根部も横転していました。
次回踏査時に写真下図のように置き換えました。
本体左側面には「奉 建立」、右側面には「寛政五年十一月吉日」と刻まれています(1793年)。
この小社が物語るものも大きいと思われます。
これが主郭と副郭を区切る空掘りです。
この突きあたり(南側)に土塁があります。
南東端(写真の左側奥)は升形を構成しているかのように掘り底が曲がっているのですが、赤色図で見ると単なるカーブのようです。
空掘りのカーブの場所から土塁を見たものです。
撮影の正面が南で左が主郭、右が副郭です。
土塁は一見して副郭と続いているように見えるのですが両サイドが切れた土塁で、神社などにある蕃塀(ばんぺい)の意味かもしれません。
これが副郭です。写真の左側に平坦な削平地が広がります。
右半分が下の方で宅地開発が迫り崩落した斜面です。
真ん中から右の斜面に残った太木で、この縁(へり)より下にある登城道をかろうじて持ち堪えています。
これが副郭と側郭を区切る掘切です。
強い遮断の意思をもって造ったというよりは区切りのための掘切のようです。
これが側郭です。
副郭より少し下にあり、主郭・副郭がほぼ平坦なのに対し、この郭(くるわ)は西側の谷戸に向かってやや下っていきます。
これが城域を大きく区切る谷戸で、ここに湧水があります。
【考察】弐分方城 そもそも何物?
ひとあたりこの城館を見て感じるのは強い戦う意思をもって造ったというわけではなく、仰ぎ見る民に尊厳をもって権威を示したい意図と、領国支配上の必要性から造られたもののように感じられます。
弐分方城が何物?かを探るための調査をしていくと次の①~③の論点が上がってきます。
① 当初の目的の滝山城(本庁)の支庁である「八王子番」の発見
② 北条氏照 八王子城移城後の出城のひとつのピース
③ 当該地の地歴調査が語るもの
① 当初の目的の滝山城(本庁)の支庁である「八王子番」の発見
まず「①」についてみていくと、最初は八王子市郷土資料館編「八王子城」(冒頭PDF参照)でレビューされているもので、薬王院文書・並木文書から
「八王子番」があった
と記載しています。
いわば滝山城を本庁だとすると、支庁として領民支配の窓口業務を処理する役所の「八王子番」です。
この記載では場所は明記されていません。
次に、新八王子市史:中世編では同じく薬王院文書を引用し
八王子に何らかの城郭があり、その麓に根小屋があったとみられる
としています。
ここでいう「八王子」とは現在の市域の八王子ではなく、今でいえば元八王子1~3丁目のことです。
ただ、奥まった御主殿などがある八王子城域とは考えていないようです。
薬王院文書から元八王子に城郭があった
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:481。(参照は左ボタンをタップ)
以上、「八王子番」について文献上の記載から2つ紹介しました。
さて、弐分方城は「八王子番」に合致するかどうかです。
結論は、多くの点で合致します。要点を次に列記します。
高尾山薬王院の御根小屋として、また、小仏峠越えの来襲を監視する施設として。
領民支配の窓口業務を処理する役所として。
この記事で見てきたように弐分方城は強い意志を持って戦うために造られた構造ではない(お役所)。
関東山ノ辺の道の通過点で交通の要衝。
以上となります。
② 北条氏照 八王子城移城後の出城のひとつのピース
弐分方城が何物かを推定する「②」は八王子市史:中世[通史編2]でレビューされているもので、文献調査と地歴調査によって八王子城下の出城の存在を推定しています。今回我々が遺構を見い出した場所と同じですが、市史の記載では踏み込みが足りなくて肝心なところを見逃してしまったと思われます。
市史の執筆者は北側斜面の登城道(縄張図の弐分方道)を登って湧水があるところまでは確認したとしています。その先は足を踏み入れなくて「武蔵名勝図会」(植田孟縉:著、下PDF参照)の文言やその挿し絵「八王子城へ軍勢押寄せる図」(PDF参照)をイメージし市史の文言を書き起こしたようです。
市史の思考のズレの中から1点指摘させていただくと、その記載では築城時に曲輪の周囲をかき下して急峻な斜面をつくったとしています。
単郭の山頂をイメージしているようですが、ここは連郭式城館です。
急峻な斜面とは北側を指していると思われますが、城郭用語でいう切岸(きりぎし)の機能をもたせたというのでしょうか。
そもそもここは段丘で、もともと急で防御構造からいっても斜面を削り落して厳しい急斜面に見せる必要性などまったくありません。
赤色図と大正地図を重ねてみると、厳しく急峻な斜面は大正期以降に宅地造成のためこうなったものであり(図の赤両矢印)、その前は今より斜度が半分ほど緩かったことがわかります(図の青両矢印。それだけでも防御には十分)。
八王子城下城戸エリアのレビュー:
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:508。(参照は左ボタンをタップ)
八王子市史が引用している八王子城下の城戸:
武蔵名勝図会[植田孟縉:著][片山迪夫:校訂]
頁:327。(参照は左ボタンをタップ)
八王子城へ軍勢押寄せる図:
武蔵名勝図会[植田孟縉:著][片山迪夫:校訂]
頁:328。(参照は左ボタンをタップ)
この場所を南側の段切り構造の側からアプローチしている方がいます。南側は主郭のすぐ下まで民家や建屋が迫ってきており、結局、全体像の把握に失敗したと思われます。
八王子市文化財課とのディスカッション
当Projectは弐分方城の遺構が城郭として体を成(ていをな)した自律した構造であると考えたこの段階で八王子市文化財課学芸員の村山さまと意見交換を行いました。
村山さんの考えは表現は違っていますが意味として、八王子城は御主殿を扇の要とするならウイング(城下)を広げた縁(へり)の部分に出城がある。小田原城で言えば空掘りの総構えですが八王子城では丘陵の地形の縁を利用していて、出城として、北口に小田野城があり南口に出羽山があります。
しかし肝心な東口のピースが埋まらなかったんです。弐分方城はそこを埋めるピースで(下図赤矢印)今回の発見は大変ありがたい、というようなことでした。
ちなみに、二城の現在の評価を都教委編「東京都の中世城館」から下にPDFとして紹介しておきます。
ここで当Projectの今後の展開がからんできます。
我々は北条氏照の滝山城時代、上杉や甲斐武田の小河内方面からの侵入を察知し滝山城に伝える繋ぎの城のネットワークの存在も赤色図で確認していて、こちらは適時展開する予定です。
他方、廿里(とどり)の戦いもあったように小仏方面の防御も重要です。
なので、氏照は八王子城時代に弐分方城を活用したことはあったとして、その前の滝山城時代から弐分方城を、小仏越えの侵攻を想定し配置し、かつ、領国支配の必要性により構築した城館であることを指摘しておきたいと考えます。
小田野城のレビュー:
東京都教育委員会:編「東京都の中世城館」
頁:99。(参照は左ボタンをタップ)
出羽山のレビュー:
東京都教育委員会:編「東京都の中世城館」
頁:116。(参照は左ボタンをタップ)
③ 当該地の地歴調査が語るもの
弐分方城が何物かを推定する「③」の手始めは主郭の南西側の法面の寛政五年(1793)年に建立された小社の存在です。
当時の村人はこのお山の上を聖域として土地利用せず、崇める存在として見上げて現代まで暮らしていたことが想像されます。
時代が下って、八王子市史では明治五年(1872)から編さんが始まった地誌からこの地域に残っている地名を拾い上げています。
市史は「城の腰(城の下)」があるとして、さらに元八王子丘陵を挟んで流れ合流した大沢川を「城の腰川(城の下の川)」とする地名が残っていて、八王子城の出城の存在を推定しています。ここで「城」を拾って縷々述べているのですが、八王子城の「城」のことなのか出城の「城」なのかよくわかりません(下PDF参照)。実踏していないので的を射た記述にならなかったのだと思われます。
市文化財課 村山さんは大正時代の地誌に弐分方で「城割り下」という字名があり、この地に城館があったことを裏付けるものだとしています。城割り(しろわり)とは城郭をとりこわすことを意味し八王子城 落城後の戦後処理がなされた証といえます。
ただ、弐分方城についていえば破却され空掘りが埋められたとかはなく、玉手箱を開けたら戦国の遺構がそのまま出てきたと感じさせるものでした。
地歴調査の結果「城の・・・」の地名を引用:
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:506-508。(参照は左ボタンをタップ)
【まとめ】
以上、今回探り当てた弐分方城を紹介してきました。
場所は滝山城と八王子城を結ぶラインの中間からやや八王子城よりで、北東に滝山城、南西に八王子城があります。
元八王子丘陵の段丘の縁(へり)に建ち、平地の八王子盆地に面し、対面(といめん)には滝山城が存在します。
一方、背面の八王子城側は林野が多く御主殿までは直線距離で3.33km先で、あまり広くない平場を通り抜けて到達します。
戦国期、領民支配の窓口業務を処理する役所である滝山城の出先機関が「八王子番」としてあったのは事実で、だとすれば、当Projectは弐分方城こそ、その要件を満たす城館であると考えます。
【解説】連郭式とは
日本の城_1000城[大野信長・有沢重雄・加唐亜紀:著]
頁:269。
連郭式城館 弐分方城を発見 !!
新たに連郭式城館 弐分方城を発見しました(掲載:24/12/12)。
場所は滝山城と八王子城を結ぶラインの中間からやや八王子城よりで、八王子市域の平野部(八王子盆地)と元八王子丘陵を区切る段丘の縁(へり)にあります(下図赤矢印)。
これまでこの城に関する伝承がなく名称がないことと、当時の弐分方(にぶかた)の村びとたちが目の前のお山(お城)を畏敬をもって見上げながら暮らしていたことを思い描き名称を弐分方城としました。
2023年9月、東京都が公開した赤色立体地図の活用により、中世城郭の遺構の探索は新たな展開が始まりました。
北条氏照が滝山城主の時期の高尾山薬王院文書などにある「八王寺(子)番」(下PDF参照)にあたるものを、この赤色図を応用して探し当てようとスクリーニングした結果、見い出したのが弐分方城です。
なお、この記載では中心部の「くるわ」を八王子城や滝山城などで使用している「曲輪」を使用せず「郭」の文字を使用しています。城のタイプを連郭式城館としたことから字づらを合わせたためです(連郭式の解説はこの記事の末尾に掲載)。
この記事は当HPの編集部(風魔 Project)の責任で作成しています。
薬王院文書・並木文書から八王子番を推定
八王子市郷土資料館:編「八王子城」令和6年(2024)年版
頁:15-16。(参照は左ボタンをタップ)
操作の概略を記載します。
PC上で編集アプリを使い、下に大正地図、上に赤色地図を重ね合わせます。
このケースでは上(のレイヤー)の赤色図の透過度を0~100%でスライドさせ、宅地などの利用がないエリアで遺構らしきものをスクリーニングしていきます。
その結果あぶり出された(スクリーニングした)場所(弐分方城)を赤矢印で示しました。
なお、左図は赤色図のレイヤーの透過度を60%にしたときの画像です。
大正地図:
大正10年測図 1/25000地図。大日本帝国陸地測量部:発行
JPEG:1.91MB。(参照は左ボタンをタップ)
【弐分方城の縄張り図】
今まで踏査した結果をまとめ左のように弐分方城の赤色立体縄張り図を作成しました。
拡大表示は
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上とまったく同じ位置での航空写真です。
1979-83年撮影。Kenzkenz氏提供。
拡大表示は
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【弐分方城の構造】
弐分方城は頂部に主郭ー副郭ー側郭を配置し(下PDF参照)それらは空掘り・掘切で区切られて連郭式城館を構成しています。
この東西の連なりを以下、連郭部と記載します。
連郭部の北側は、あとの考察の項で述べるように戦国当時とは違って、現在は急峻な斜面が下ります。
これに対し南側はいわゆる「段切り」され(下PDF参照)、段切り状の階層構造で下ります。
戦国当時の登城ルートは城館の北側の下から見上げて、「つ」の字の書き方を逆になぞるように進み一番奥の虎口(主郭北東部)に至ります。
今回の報告では明瞭な遺構が多く残っている連郭部と、現代になってから崩落が進んだ北側斜面でかろうじて持ち堪えている腰曲輪や寸断されながらも生き残っている登城道などを取り上げます。
中世の城の構造とパーツの解説:
新八王子市史:中世[資料編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:828。(参照は左ボタンをタップ)
段切り状遺構:
新八王子市史:中世[資料編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:827。(参照は左ボタンをタップ)
【弐分方城の各部紹介】
これは側郭の北側の登城道です。
遺構としてしっかりと残っています。
写真の右側の一段上になっている平場が側郭です。
赤色縄張り図の登城道(弐分方道)と記載された踏跡とここまでの間の登城道は崩落によって消失しています。
主郭の北側斜面に存在する腰曲輪です。
左上の空が透けて見える位置が主郭で、その比高差は6mほど(目視)です。
右奥と左はそれぞれ登城道となっています。
ここだけが崖にせり出していて広い空間になっています。
出入りをチェックする改所とかの施設があったと推察されます。
虎口です。
ここまで続いた登城道の終端で東側(写真では正面から左へ)は土塁で形造られています。
歩を進めると右に旋回し、おのずと主郭に誘導される構造になっています。
これが主郭です。
ほぼ長方形をした削平地で急峻な段丘の頂部にあります。
段丘の北側下には弐分方の村落が展開し(戦国期)、現在の八王子の市街部の平野をはさみ滝山城と相対する位置にあります。
連郭部は大正図や、太平洋戦争前から現在までの航空写真で検証しても建屋などはなく、桑畑などに利用された形跡もありません。
もしかして小田原北条滅亡後、村びとが立ち入らないスピリチュアルな領域、あるいは天正18年(1590)の悲劇にふれたくない忌嫌う領域として放置されたのかもしれません。
主郭の南西側の法面(のりめん)、縄張り図の通用口の横には石造りの小社(やしろ)が置かれています。
初見時には本体部が上下逆転で、屋根部も横転していました。
次回踏査時に写真下図のように置き換えました。
本体左側面には「奉 建立」、右側面には「寛政五年十一月吉日」と刻まれています(1793年)。
この小社が物語るものも大きいと思われます。
これが主郭と副郭を区切る空掘りです。
この突きあたり(南側)に土塁があります。
南東端(写真の左側奥)は升形を構成しているかのように掘り底が曲がっているのですが、赤色図で見ると単なるカーブのようです。
空掘りのカーブの場所から土塁を見たものです。
撮影の正面が南で左が主郭、右が副郭です。
土塁は一見して副郭と続いているように見えるのですが両サイドが切れた土塁で、神社などにある蕃塀(ばんぺい)の意味かもしれません。
これが副郭です。写真の左側に平坦な削平地が広がります。
右半分が下の方で宅地開発が迫り崩落した斜面です。
真ん中から右の斜面に残った太木で、この縁(へり)より下にある登城道をかろうじて持ち堪えています。
これが副郭と側郭を区切る掘切です。
強い遮断の意思をもって造ったというよりは区切りのための掘切のようです。
これが側郭です。
副郭より少し下にあり、主郭・副郭がほぼ平坦なのに対し、この郭(くるわ)は西側の谷戸に向かってやや下っていきます。
これが城域を大きく区切る谷戸で、ここに湧水があります。
【考察】弐分方城 そもそも何物?
ひとあたりこの城館を見て感じるのは強い戦う意思をもって造ったというわけではなく、仰ぎ見る民に尊厳をもって権威を示したい意図と、領国支配上の必要性から造られたものように感じられます。
弐分方城が何物?かを探るための調査をしていくと次の①~③の論点が上がってきます。
① 当初の目的の滝山城(本庁)の支庁である「八王子番」の発見
② 北条氏照 八王子城移城後の出城のひとつのピース
③ 当該地の地歴調査が語るもの
① 当初の目的の滝山城(本庁)の支庁である「八王子番」の発見
まず「①」についてみていくと、最初は八王子市郷土資料館編「八王子城」(冒頭PDF参照)でレビューされているもので、薬王院文書・並木文書から
「八王子番」があった
と記載しています。
いわば滝山城を本庁だとすると、支庁として領民支配の窓口業務を処理する役所の「八王子番」です。
この記載では場所は明記されていません。
薬王院文書・並木文書から八王子番を推定
八王子市郷土資料館:編「八王子城」令和6年(2024)年版
頁:15-16。(参照は左ボタンをタップ)
次に、新八王子市史:中世編では同じく薬王院文書を引用し
八王子に何らかの城郭があり、その麓に根小屋があったとみられる
としています。
ここでいう「八王子」とは現在の市域の八王子ではなく、今でいえば元八王子1~3丁目のことです。
ただ、奥まった御主殿などがある八王子城域とは考えていないようです。
薬王院文書から元八王子に城郭があった
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:481。(参照は左ボタンをタップ)
以上、「八王子番」について文献上の記載から2つ紹介しました。
さて、弐分方城は「八王子番」に合致するかどうかです。
結論は、多くの点で合致します。要点を次に列記します。
高尾山薬王院の御根小屋として、また、小仏峠越えの来襲を監視する施設として。
領民支配の窓口業務を処理する役所として。
この記事で見てきたように弐分方城は強い意志を持って戦うために造られた構造ではない(お役所)。
関東山ノ辺の道の通過点で交通の要衝。
以上となります。
② 北条氏照 八王子城移城後の出城のひとつのピース
弐分方城が何物かを推定する「②」は八王子市史:中世[通史編2]でレビューされているもので、文献調査と地歴調査によって八王子城下の出城の存在を推定しています。今回我々が遺構を見い出した場所と同じですが、市史の記載では踏み込みが足りなくて肝心なところを見逃してしまったと思われます。
市史の執筆者は北側斜面の登城道(縄張図の弐分方道)を登って湧水があるところまでは確認したとしています。その先は足を踏み入れなくて「武蔵名勝図会」(植田孟縉:著、下PDF参照)の文言やその挿し絵「八王子城へ軍勢押寄せる図」(PDF参照)をイメージし市史の文言を書き起こしたようです。
市史の思考のズレの中から1点指摘させていただくと、その記載では築城時に曲輪の周囲をかき下して急峻な斜面をつくったとしています。
単郭の山頂をイメージしているようですが、ここは連郭式城館です。
急峻な斜面とは北側を指していると思われますが、城郭用語でいう切岸(きりぎし)の機能をもたせたというのでしょうか。
そもそもここは段丘で、もともと急で防御構造からいっても斜面を削り落して厳しい急斜面に見せる必要性などまったくありません。
赤色図と大正地図を重ねてみると、厳しく急峻な斜面は大正期以降に宅地造成のためこうなったものであり(図の赤両矢印)、その前は今より斜度が半分ほど緩かったことがわかります(図の青両矢印。それだけでも防御には十分)。
八王子城下城戸エリアのレビュー:
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:508。(参照は左ボタンをタップ)
八王子市史が引用している八王子城下の城戸:
武蔵名勝図会[植田孟縉:著][片山迪夫:校訂]
頁:327。(参照は左ボタンをタップ)
八王子城へ軍勢押寄せる図:
武蔵名勝図会[植田孟縉:著][片山迪夫:校訂]
頁:328。(参照は左ボタンをタップ)
この場所を南側の段切り構造の側からアプローチしている方がいます。南側は主郭のすぐ下まで民家や建屋が迫ってきており、結局、全体像の把握に失敗したと思われます。
八王子市文化財課とのディスカッション
当Projectは弐分方城の遺構が城郭として体を成(ていをな)した自律した構造であると考えたこの段階で八王子市文化財課学芸員の村山さまと意見交換を行いました。
村山さんの考えは表現は違っていますが意味として、八王子城は御主殿を扇の要とするならウイング(城下)を広げた縁(へり)の部分に出城がある。小田原城で言えば空掘りの総構えですが八王子城では丘陵の地形の縁を利用していて、出城として、北口に小田野城があり南口に出羽山があります。
しかし肝心な東口のピースが埋まらなかったんです。弐分方城はそこを埋めるピースで(下図赤矢印)今回の発見は大変ありがたい、というようなことでした。
ちなみに、二城の現在の評価を都教委編「東京都の中世城館」から下にPDFとして紹介しておきます。
ここで当Projectの今後の展開がからんできます。
我々は北条氏照の滝山城時代、上杉や甲斐武田の小河内方面からの侵入を察知し滝山城に伝える繋ぎの城のネットワークの存在も赤色図で確認していて、こちらは適時展開する予定です。
他方、廿里(とどり)の戦いもあったように小仏方面の防御も重要です。
なので、氏照は八王子城時代に弐分方城を活用したことはあったとして、その前の滝山城時代から弐分方城を、小仏越えの侵攻を想定し配置し、かつ、領国支配の必要性により構築した城館であることを指摘しておきたいと考えます。
小田野城のレビュー:
東京都教育委員会:編「東京都の中世城館」
頁:99。(参照は左ボタンをタップ)
出羽山のレビュー:
東京都教育委員会:編「東京都の中世城館」
頁:116。(参照は左ボタンをタップ)
③ 当該地の地歴調査が語るもの
弐分方城が何物かを推定する「③」の手始めは主郭の南西側の法面の寛政五年(1793)年に建立された小社の存在です。
当時の村人はこのお山の上を聖域として土地利用せず、崇める存在として見上げて現代まで暮らしていたことが想像されます。
時代が下って、八王子市史では明治五年(1872)から編さんが始まった地誌からこの地域に残っている地名を拾い上げています。
市史は「城の腰(城の下)」があるとして、さらに元八王子丘陵を挟んで流れ合流した大沢川を「城の腰川(城の下の川)」とする地名が残っていて、八王子城の出城の存在を推定しています。ここで「城」を拾って縷々述べているのですが、八王子城の「城」のことなのか出城の「城」なのかよくわかりません(下PDF参照)。実踏していないので的を射た記述にならなかったのだと思われます。
市文化財課 村山さんは大正時代の地誌に弐分方で「城割り下」という字名があり、この地に城館があったことを裏付けるものだとしています。城割り(しろわり)とは城郭をとりこわすことを意味し八王子城 落城後の戦後処理がなされた証といえます。
ただ、弐分方城についていえば破却され空掘りが埋められたとかはなく、玉手箱を開けたら戦国の遺構がそのまま出てきたと感じさせるものでした。
地歴調査の結果「城の・・・」の地名を引用:
新八王子市史:中世[通史編2]八王子市史編集委員会:編集_八王子市:発行
頁:506-508。(参照は左ボタンをタップ)
【まとめ】
以上、今回探り当てた弐分方城を紹介してきました。
場所は滝山城と八王子城を結ぶラインの中間からやや八王子城よりで、北東に滝山城、南西に八王子城があります。
元八王子丘陵の段丘の縁(へり)に建ち、平地の八王子盆地に面し、対面(といめん)には滝山城が存在します。
一方、背面の八王子城側は林野が多く御主殿までは直線距離で3.33km先で、あまり広くない平場を通り抜けて到達します。
戦国期、領民支配の窓口業務を処理する役所である滝山城の出先機関が「八王子番」としてあったのは事実で、だとすれば、当Projectは弐分方城こそ、その要件を満たす城館であると考えます。
【解説】連郭式とは
日本の城_1000城[大野信長・有沢重雄・加唐亜紀:著]
頁:269。
24年 北条氏照まつりを開催
!!
第13回「北条氏照まつり」が開催されました(撮影:2024/10/27)。
日本百名城八王子城跡のガイダンス施設から御主殿までを会場として行われたものです。
参加した武者の数は八王子城隊80名余。小田原城、韮山城、鉢形城をはじめとした友城から馳せ参じた武者たちを含め総勢170名の武者イベントとなりました。
去年と同じで八王子城跡ガイダンス西側の駐車場からのスタートです。
まず、ジオラマ広場をめざして行軍開始です。
今年の北条氏照公役はNPO三ッ鱗会 AKYさんです。
同じく、比佐御前役は三ッ鱗会 HNOさんです。
ここはジオラマ広場です。露店がブースを構えていますが今年は数が少ないです。
城域内に入って最初に城山川を渡る橋、人道橋です。後ろはアシダ曲輪、土塁で囲まれています。
八王子城隊、大手門前まで進軍してきました。
大手門跡を背に御主殿をめざして歩を進めます。
八王子城隊、御主殿虎口に到着しました。右手後方の曳橋上も八王子城隊の軍勢です。
氏照公、比佐御前の登城です。
八王子城隊、虎口石段を登ります。
八王子城隊、足軽隊(鉄砲隊)です。
御主殿へ入陣です。
八王子城隊が勢ぞろいしました。
拡大表示は
をタップ。
出陣の前に三献の儀(さんこんのぎ)を取り行いました。
最後にご来賓の皆さまもご一緒に鬨の声(ときのこえ)、エイエイオーです。
24年 北条氏照まつりを開催
!!
第13回「北条氏照まつり」が開催されました(撮影:2024/10/27)。
日本百名城八王子城跡のガイダンス施設から御主殿までを会場として行われたものです。
参加した武者の数は八王子城隊80名余。小田原城、韮山城、鉢形城をはじめとした友城から馳せ参じた武者たちを含め総勢170名の武者イベントとなりました。
去年と同じで八王子城跡ガイダンス西側の駐車場からのスタートです。
まず、ジオラマ広場をめざして行軍開始です。
今年の北条氏照公役はNPO三ッ鱗会 AKYさんです。
同じく、比佐御前役は三ッ鱗会 HNOさんです。
ここはジオラマ広場です。露店がブースを構えていますが今年は数が少ないです。
城域内に入って最初に城山川を渡る橋、人道橋です。後ろはアシダ曲輪、土塁で囲まれています。
八王子城隊、大手門前まで進軍してきました。
大手門跡を背に御主殿をめざして歩を進めます。
八王子城隊、御主殿虎口に到着しました。右手後方の曳橋上も八王子城隊の軍勢です。
氏照公、比佐御前の登城です。
八王子城隊、虎口石段を登ります。
八王子城隊、足軽隊(鉄砲隊)です。
御主殿へ入陣です。
八王子城隊が勢ぞろいしました。
拡大表示は
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出陣の前に三献の儀(さんこんのぎ)を取り行いました。
最後にご来賓の皆さまもご一緒に鬨の声(ときのこえ)、エイエイオーです。
八王子城域内で巨大な風倒木痕
八王子城域内で巨大な風倒木痕を目(ま)の当たりにしました(撮影:24/9/21)。
8月19日(木)の午後、八王子市あたりで突風や雹(ひょう)が吹き荒れたことによるものです。
城域内でこの1~2年、ナラ枯れによって立ち枯れした巨木がものすごい音とともに土煙を上げて倒れるのを目にすることがあるのですが、こんな大木が何本もまとまって倒れていたとは、初めて見ました。
今回のものはナラ枯れのような枯れた樹木ではなく生木です。
太い生木が5本以上ひと塊りになって倒れています。
太鼓曲輪を通る登山道は写真のすぐ左側にあります。
同じ現場を角度を変えて見てみました。
スケールのため男性に立ってもらっています。
彼は身長184cm、かなり大きな方です。
目算すると、楕円形の風倒木根(痕)の高さ約5m、横幅10mです。
八王子城にかぎらず多くの登山道を歩いてきましたが、未だかつて見たことがないくらいの大きさです。
八王子城の縄張り図に場所を示しておきました。
水色の○印です。
現場は太鼓曲輪の尾根の背のあたりですが、幸いなことに倒れた方向は谷側です。
今回の突風は本当にピンポイントだったようです。
八王子城跡の見学の標準的なコースの御主殿まわりでは樹木の枝や葉っぱが散乱していますが歩行には問題はありません。。
また、管理棟に立ち寄る登山者の方々の話を聞いても、管理棟→山頂部→富士見台あたりの登山道では特に大きな倒木はないようです。
八王子城域内で巨大な風倒木痕
八王子城域内で巨大な風倒木痕を目(ま)の当たりにしました(撮影:24/9/21)。
8月19日(木)の午後、八王子市あたりで突風や雹(ひょう)が吹き荒れたことによるものです。
城域内でこの1~2年、ナラ枯れによって立ち枯れした巨木がものすごい音とともに土煙を上げて倒れるのを目にすることがあるのですが、こんな大木が何本もまとまって倒れていたとは、初めて見ました。
今回のものはナラ枯れのような枯れた樹木ではなく生木です。
太い生木が5本以上ひと塊りになって倒れています。
太鼓曲輪を通る登山道は写真のすぐ左側にあります。
同じ現場を角度を変えて見てみました。
スケールのため男性に立ってもらっています。
彼は身長184cm、かなり大きな方です。
目算すると、楕円形の風倒木根(痕)の高さ約5m、横幅10mです。
八王子城にかぎらず多くの登山道を歩いてきましたが、未だかつて見たことがないくらいの大きさです。
八王子城の縄張り図に場所を示しておきました。
水色の○印です。
現場は太鼓曲輪の尾根の背のあたりですが、幸いなことに倒れた方向は谷側です。
今回の突風は本当にピンポイントだったようです。
八王子城跡の見学の標準的なコースの御主殿まわりでは樹木の枝や葉っぱが散乱していますが歩行には問題はありません。。
また、管理棟に立ち寄る登山者の方々の話を聞いても、管理棟→山頂部→富士見台あたりの登山道では特に大きな倒木はないようです。
子ども手作り甲冑教室を開催
2024年子ども手作り甲冑教室が開催されました(撮影:24/8/11)。
主催は八王子市文化財課でNPO八王子城跡三ッ鱗会が協力したものです。
会場は城跡ガイダンス施設で、市の公報で募集に応じた19名の皆さんが参加しました(プラスご家族がそれとほぼ同数)。
今までは二日間の工程でしたが今年からは作業を圧縮して1日での仕上げとなりました。
最初に各部品、作業の進め方に関する全般的な説明です。
甲冑づくりの基本が紐(ひも)による作業です。
紐よる作業は威す(おどす)と呼ばれ各部品を紐でつづり合わせたり飾ったりと重要です。
まず、紐を威(おど)して「草ずり」を作っています。
威(おど)しはきつく引っ張らず、ふんわりと仕上げるのがコツです。
作った草ずりはつなぎ合わせます。
次は胴の作成です。
胴に三ッ鱗の家紋を貼り付けます。
綺麗にいくか緊張の作業です。
三ッ鱗の家紋の貼り付けがうまくいったようです。
胴に付けた草ずりを身丈に合わせて調整します。
草ずりは戦のとき、下腹・太腿(ふともも)を保護します。
最後の工程は兜(かぶと)の作成です。
子どもを笑顔にするプロジェクト「おりかぶと」として市内の小学校の訪問授業でやってきたものを取り込んでいます。
三日月型をした前立て(まえだて)を取り付けると兜は完成です。
いざ、戦わん !!
八王子城の三ッ鱗の幟旗をバックに完成お披露目です。
どうでしょう。
八王子城鉄砲隊(候補生)です。
何やら「うじてるくん」が来てくれたようです。
最後はみんなで集合写真です。
今までは外で八王子城本丸方向をバックにした記念写真でしたが、今年はこの暑さなので屋内でした。
参加された小学生の皆さん、ご家族のの方々、お疲れさまでした。
この中のどれくらいの子どもたちが秋の「北条氏照まつり」(10/27)に参加してくれるでしょうか。
楽しみです。
主催された文化財課の皆さん、指導されたNPO三ッ鱗会の皆さん、お疲れさまでした。
子ども手作り甲冑教室を開催
2024年子ども手作り甲冑教室が開催されました(撮影:24/8/11)。
主催は八王子市文化財課でNPO八王子城跡三ッ鱗会が協力したものです。
会場は城跡ガイダンス施設で、市の公報で募集に応じた19名の皆さんが参加しました(プラスご家族がそれとほぼ同数)。
今までは二日間の工程でしたが今年からは作業を圧縮して1日での仕上げとなりました。
最初に各部品、作業の進め方に関する全般的な説明です。
甲冑づくりの基本が紐(ひも)による作業です。
紐よる作業は威す(おどす)と呼ばれ各部品を紐でつづり合わせたり飾ったりと重要です。
まず、紐を威(おど)して「草ずり」を作っています。
威(おど)しはきつく引っ張らず、ふんわりと仕上げるのがコツです。
作った草ずりはつなぎ合わせます。
次は胴の作成です。
胴に三ッ鱗の家紋を貼り付けます。
綺麗にいくか緊張の作業です。
三ッ鱗の家紋の貼り付けがうまくいったようです。
胴に付けた草ずりを身丈に合わせて調整します。
草ずりは戦のとき、下腹・太腿(ふともも)を保護します。
最後の工程は兜(かぶと)の作成です。
子どもを笑顔にするプロジェクト「おりかぶと」として市内の小学校の訪問授業でやってきたものを取り込んでいます。
三日月型をした前立て(まえだて)を取り付けると兜は完成です。
いざ、戦わん !!
八王子城の三ッ鱗の幟旗をバックに完成お披露目です。
どうでしょう。
八王子城鉄砲隊(候補生)です。
何やら「うじてるくん」が来てくれたようです。
最後はみんなで集合写真です。
今までは外で八王子城本丸方向をバックにした記念写真でしたが、今年はこの暑さなので屋内でした。
参加された小学生の皆さん、ご家族のの方々、お疲れさまでした。
この中のどれくらいの子どもたちが秋の「北条氏照まつり」(10/27)に参加してくれるでしょうか。
楽しみです。
主催された文化財課の皆さん、指導されたNPO三ッ鱗会の皆さん、お疲れさまでした。
「山と渓谷」山城特集:八王子城跡の特別展示
「山と渓谷」誌の山城特集で2023年2月号に八王子城跡が取り上げられた内容の特別展示です(掲載:24/7/28)。
場所は八王子城跡ガイダンス施設休憩スペース、期間は令和6年(2024年)7月29日(月)から9月3日(火)までを予定しています(市文化財課)。
これは国民の祝日として「山の日」が制定された平成28年から毎年開催されている「山の日」全国大会が、今年度は東京都で実施され、関連フェステバルが八王子市内で催されることに呼応したものということです。
誌面では山歩きと山城探訪の融合による相乗効果が期待され、そのステージとして八王子城跡が取り上げられました。
展示会場は八王子城本丸(山頂部)を望みクールシェルター(涼みどころ)としても最適なロケーションです。
酷暑を乗り切る選択のひとつとしてご活用下さい。
八王子城々山は山とはいえ低山です。夏は都心部と同じように暑いです。
もし、山頂部まで歩かれるのならば(敵期は)秋~冬~春がおすすめです。
今回のパネル展示が行われている城跡ガイダンス施設です。
JR高尾駅北口からの直通バスが土日祝日に運行されています。この建物のすぐ右手(裏)にバスロータリーがあります。
駐車場はこの左手に十分な駐車スペースがあります(無料。AM9:00-PM5:00)。
今回のパネル展用のポスターです。
ここは富士見台や陣馬山方面の山歩きの起点(終点)となる位置にあります。
山城とはなんぞや?
ということで山城の入門から構造やパーツの解説が展開されます。
背景の屋外は八王子城本丸(山頂部)方面です。
いざ、八王子城へ参らん!
八王子城に踏み入れた中で、山城歩きの奥深さと当時の姿を想像する楽しさを紹介しています。
「山と渓谷」山城特集:八王子城跡の特別展示
「山と渓谷」誌の山城特集で2023年2月号に八王子城跡が取り上げられた内容の特別展示です(掲載:24/7/28)。
場所は八王子城跡ガイダンス施設休憩スペース、期間は令和6年(2024年)7月29日(月)から9月3日(火)までを予定しています(市文化財課)。
これは国民の祝日として「山の日」が制定された平成28年から毎年開催されている「山の日」全国大会が、今年度は東京都で実施され、関連フェステバルが八王子市内で催されることに呼応したものということです。
誌面では山歩きと山城探訪の融合による相乗効果が期待され、そのステージとして八王子城跡が取り上げられました。
展示会場は八王子城本丸(山頂部)を望みクールシェルター(涼みどころ)としても最適なロケーションです。
酷暑を乗り切る選択のひとつとしてご活用下さい。
八王子城々山は山とはいえ低山です。夏は都心部と同じように暑いです。
もし、山頂部まで歩かれるのならば(敵期は)秋~冬~春がおすすめです。
今回のパネル展示が行われている城跡ガイダンス施設です。
JR高尾駅北口からの直通バスが土日祝日に運行されています。この建物のすぐ右手(裏)にバスロータリーがあります。
駐車場はこの左手に十分な駐車スペースがあります(無料。AM9:00-PM5:00)。
今回のパネル展用のポスターです。
ここは富士見台や陣馬山方面の山歩きの起点(終点)となる位置にあります。
山城とはなんぞや?
ということで山城の入門から構造やパーツの解説が展開されます。
背景の屋外は八王子城本丸(山頂部)方面です。
いざ、八王子城へ参らん!
八王子城に踏み入れた中で、山城歩きの奥深さと当時の姿を想像する楽しさを紹介しています。
NPO三ッ鱗会々報 講演特別号発行
NPO三ッ鱗会々報 講演特別号が発行されました(掲載:24/7/17)。
この講演は本年6月に、NPO「八王子城跡 三ッ鱗会」が定期総会を持ち、その記念として開催されたものです。
一昨年、昨年と記念講演を会報特別号として発行したところ好評で、今年度も講師の市文化財課 村山 修さまに多大のご協力をいただき会報特別号第三弾として発行したということです。
内容は八王子城跡の石垣ということで、今までに発掘されたものなどを題材にして、戦国時代の関東としてはめずらしい石垣の城を解説したものとなっています。
ご希望の方は城跡管理棟で、その旨お声かけしていただければ差し上げしています。
最初に登城する際まず目にする虎口石段などにふれ、そのあと核心として八王子城の石垣を発掘時と現在の姿を対比し網羅して紹介します。
最後に御主殿が石作り構造物によって区切られた三段(三面)の高低差のある削平地から構成されることを推測します。
これが城跡管理棟、右半分がガイドの詰所になっています。
講演特別号をご希望の方は管理棟でお声かけして下さい。
上の写真のいらっしゃいませアイコンのドアをノックしてガイドからいただいて下さい。
(上の写真のアイコンのドアは画像のはめ込みなので、実際は通常のドアです)
今回は NPO三ッ鱗会々報 特別号第三弾ということです。
今後、この企画がどう展開していくのかが楽しみです。
NPO三ッ鱗会々報 講演特別号発行
NPO三ッ鱗会々報 講演特別号が発行されました(掲載:24/7/17)。
この講演は本年6月に、NPO「八王子城跡 三ッ鱗会」が定期総会を持ち、その記念として開催されたものです。
一昨年、昨年と記念講演を会報特別号として発行したところ好評で、今年度も講師の市文化財課 村山 修さまに多大のご協力をいただき会報特別号第三弾として発行したということです。
内容は八王子城跡の石垣ということで、今までに発掘されたものなどを題材にして、戦国時代の関東としてはめずらしい石垣の城を解説したものとなっています。
ご希望の方は城跡管理棟で、その旨お声かけしていただければ差し上げしています。
最初に登城する際まず目にする虎口石段などにふれ、そのあと核心として八王子城の石垣を発掘時と現在の姿を対比し網羅して紹介します。
最後に御主殿が石作り構造物によって区切られた三段(三面)の高低差のある削平地から構成されることを推測します。
これが城跡管理棟、右半分がガイドの詰所になっています。
講演特別号をご希望の方は管理棟でお声かけして下さい。
上の写真のいらっしゃいませアイコンのドアをノックしてガイドからいただいて下さい。
(上の写真のアイコンのドアは画像のはめ込みなので、実際は通常のドアです)
今回は NPO三ッ鱗会々報 特別号第三弾ということです。
今後、この企画がどう展開していくのかが楽しみです。
寄居北條まつりが開催
!!
第63回寄居北條まつりが埼玉県寄居町で開催されました(撮影:24/5/12)。
コロナで4年のブランクがあり、今回は従来の形で再開されて2年目、武者の参加者が500名であったということです。
今年の八王子城隊は、NPO八王子城跡三ッ鱗会メンバーを中心に、総勢24名の選りすぐりのメンバーによる参陣でした。
小田原を本城とする北条三兄弟の絆を、小田原市、八王子市、寄居町で確かめる歴史イベントとなりました。
寄居町総合体育館の柔道場の着替え場所で準備を終え、いざ出陣です。
JR寄居駅の連絡通路を通り抜け、すぐ目の前が出発地点です。
整備事業で駅前にできた施設「Yotteco」の前、去年からここが出発地点でした。
さあ、いよいよ行軍開始です。八王子城隊、いざ、出陣
!!
北条氏照隊 鉄砲隊。撃ち手、前へ
!!
右端は最近参加し始めた将来を背負うメンバー、よろしくです。
整備事業でJR寄居駅からまっすぐに延びた道路がここまで繋がりました。
お屋敷の家並みに来るとメイン会場の玉淀河原までもうすぐです。
八王子城隊の行軍が粛々と進みます。
眼下に広がるのが寄居北條まつりのメイン会場の玉淀河原です。
いざ!! 八王子城隊の入陣です。
八王子城隊の後陣(ごぢん)です。
北条勢と豊臣軍の攻防戦の前に必勝を祈願して「三献の儀」が取り行われます。
寄居北條まつりの真骨頂、大筒(おおづつ風?)の実射 見せ場です。
最後はみんな揃って玉淀河原で集合写真です。
以上、掲載した写真と紹介しきれなかった写真を含め、写真集としてまとめました。
閲覧は_右
令和6年 寄居北條まつり
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寄居北條まつりが開催
!!
第63回寄居北條まつりが埼玉県寄居町で開催されました(撮影:24/5/12)。
コロナで4年のブランクがあり、今回は従来の形で再開されて2年目、武者の参加者が500名であったということです。
今年の八王子城隊は、NPO八王子城跡三ッ鱗会メンバーを中心に、総勢24名の選りすぐりのメンバーによる参陣でした。
小田原を本城とする北条三兄弟の絆を、小田原市、八王子市、寄居町で確かめる歴史イベントとなりました。
寄居町総合体育館の柔道場の着替え場所で準備を終え、いざ出陣です。
JR寄居駅の連絡通路を通り抜け、すぐ目の前が出発地点です。
整備事業で駅前にできた施設「Yotteco」の前、去年からここが出発地点でした。
さあ、いよいよ行軍開始です。八王子城隊、いざ、出陣
!!
北条氏照隊 鉄砲隊。撃ち手、前へ
!!
右端は最近参加し始めた将来を背負うメンバー、よろしくです。
整備事業でJR寄居駅からまっすぐに延びた道路がここまで繋がりました。
お屋敷の家並みに来るとメイン会場の玉淀河原までもうすぐです。
八王子城隊の行軍が粛々と進みます。
眼下に広がるのが寄居北條まつりのメイン会場の玉淀河原です。
いざ!! 八王子城隊の入陣です。
八王子城隊の後陣(ごぢん)です。
北条勢と豊臣軍の攻防戦の前に必勝を祈願して「三献の儀」が取り行われます。
寄居北條まつりの真骨頂、大筒(おおづつ風?)の実射 見せ場です。
最後はみんな揃って玉淀河原で集合写真です。
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小田原北條五代祭りが開催
!!
第60回北條五代祭りが小田原市で開催されました(撮影:24/5/3)。
北条五代の四代当主北条氏政公役では去年と同様に高嶋政伸さんが騎乗し、五代の北条氏直役では柳沢慎吾さんが続きました。
今年の八王子城隊ですが、NPO八王子城跡三ッ鱗会のもと、総勢31名の選りすぐりのメンバーによる編成で、例年どおり大型の貸し切りバスで本城小田原まで参陣です。
報道では過去最高の人出だったという去年ですが、今年はさらに多くの人が沿道に集まっているという印象でした。
八王子城隊は、10年以上前からこの五代祭りに参加していますが天守前で集合写真は初めてです。
銅門(あかがねもん)の前。高嶋政伸さんも馬上から出陣の頃合いを見計らっています。
八王子城隊、今年の北条氏照公役は前八王子市長の石森孝志さんです。
さあ出発、八王子城隊の出陣です。
馬出し門から八王子城隊の先陣が出てきました。
続くのは八王子城足軽隊、別名:鉄砲隊です。
市中の行軍に出た八王子城隊。三ッ鱗の旗が目映い(まばゆい)です。
八王子城薙刀(なぎなた)隊です。
八王子城鉄砲隊、一歩前 !!
市の中心部へ向かう本陣隊です。
だいぶ中心部に近づいてきました。
沿道の皆さんの声援もひときわ高くなってきました。
さあ、そろそろ帰城となります。
市中からお堀端通りへと上ります。
無事、小田原本城へと帰ってきました。
出発した銅門(あかがねもん)です。
最後はみんな揃って銅門をバックに集合写真です。
以上、掲載した写真と紹介しきれなかった写真を含め、写真集としてまとめました。
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令和6年 小田原北條五代祭り
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小田原北條五代祭りが開催
!!
第60回北條五代祭りが小田原市で開催されました(撮影:24/5/3)。
北条五代の四代当主北条氏政公役では去年と同様に高嶋政伸さんが騎乗し、五代の北条氏直役では柳沢慎吾さんが続きました。
今年の八王子城隊ですが、NPO八王子城跡三ッ鱗会のもと、総勢31名の選りすぐりのメンバーによる編成で、例年どおり大型の貸し切りバスで本城小田原まで参陣です。
報道では過去最高の人出だったという去年ですが、今年はさらに多くの人が沿道に集まっているという印象でした。
八王子城隊は、10年以上前からこの五代祭りに参加していますが天守前で集合写真は初めてです。
銅門(あかがねもん)の前。高嶋政伸さんも馬上から出陣の頃合いを見計らっています。
八王子城隊、今年の北条氏照公役は前八王子市長の石森孝志さんです。
さあ出発、八王子城隊の出陣です。
馬出し門から八王子城隊の先陣が出てきました。
続くのは八王子城足軽隊、別名:鉄砲隊です。
市中の行軍に出た八王子城隊。三ッ鱗の旗が目映い(まばゆい)です。
八王子城薙刀(なぎなた)隊です。
八王子城鉄砲隊、一歩前 !!
市の中心部へ向かう本陣隊です。
だいぶ中心部に近づいてきました。
沿道の皆さんの声援もひときわ高くなってきました。
さあ、そろそろ帰城となります。
市中からお堀端通りへと上ります。
無事、小田原本城へと帰ってきました。
出発した銅門(あかがねもん)です。
最後はみんな揃って銅門をバックに集合写真です。
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「赤色立体縄張り図」をもとに八王子城最大の竪掘りを発見
ひとつ下の記事で作成した八王子城「赤色立体縄張り図」をもとに八王子城最大級の竪掘りを発見しました(記事作成:2024/3/14)。
これは赤色立体地図の活用が中世(や戦国)の城跡の構造解明にきわめて有効な手段になるという証左になります。
八王子城における最大級の竪掘り
!!
場所は詰め城の南に下る石塁の尾根からさらに東に延びる尾根の東端、そこから東南に下るとやがてやや緩やかに展開する斜面があります。
この竪掘りはそこにあります。
縄張り図(部分掲載)に白枠で示しておきました。
八王子城域内では自然地形の巨大な谷筋が各所にありそれらを竪掘りだという人が多くいます。
それに対しここは平板状の斜面に「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナス ワン)がかき削ったかと思わせるような太い空掘りが下方に延びています。
また、上に平地がないので林業作業での木材降下用の筋ではという危惧は不要です。
先達の文献にもこの竪掘りの記載はない
現代の八王子城の解明に多大な貢献をされた小松敏盛氏が記載した「八王子城跡現状遺構図」を見ても今回の竪掘りの記載はありません。
八王子城: みる・きく・あるく_1989年_峰岸 純夫・椚 國男:編
また、東京都の中世城館_東京都教育委員会:編_2013年、八王子市郷土資料館「八王子城」などにも全くこの竪掘りの痕跡はありません。
今回、下の記事で参照している八王子城「赤色立体縄張り図」を、新たに発見した竪掘りを反映させたものに修正しました。
あわせて新たな追記も2・3か所行っています。
修正版は次からたどってみて下さい。
2.82 MB、5090 x 3600 pixel
1.49 MB、2000 x 1414 pixel
「赤色立体縄張り図」をもとに八王子城最大の竪掘りを発見
ひとつ下の記事で作成した八王子城「赤色立体縄張り図」をもとに八王子城最大級の竪掘りを発見しました(記事作成:2024/3/14)。
これは赤色立体地図の活用が中世(や戦国)の城跡の構造解明にきわめて有効な手段になるという証左になります。
八王子城における最大級の竪掘り
!!
場所は詰め城の南に下る石塁の尾根からさらに東に延びる尾根の東端、そこから東南に下るとやがてやや緩やかに展開する斜面があります。
この竪掘りはそこにあります。
縄張り図(部分掲載)に白枠で示しておきました。
八王子城域内では自然地形の巨大な谷筋が各所にありそれらを竪掘りだという人が多くいます。
それに対しここは平板状の斜面に「ゴジラ-1.0」(ゴジラ マイナス ワン)がかき削ったかと思わせるような太い空掘りが下方に延びています。
また、上に平地がないので林業作業での木材降下用の筋ではという危惧は不要です。
先達の文献にもこの竪掘りの記載はない
現代の八王子城の解明に多大な貢献をされた小松敏盛氏が記載した「八王子城跡現状遺構図」を見ても今回の竪掘りの記載はありません。
八王子城: みる・きく・あるく_1989年_峰岸 純夫・椚 國男:編
また、東京都の中世城館_東京都教育委員会:編_2013年、八王子市郷土資料館「八王子城」などにも全くこの竪掘りの痕跡はありません。
今回、下の記事で参照している八王子城「赤色立体縄張り図」を、新たに発見した竪掘りを反映させたものに修正しました。
あわせて新たな追記も2・3か所行っています。
修正版は次からたどってみて下さい。
2.82 MB、5090 x 3600 pixel
1.49 MB、2000 x 1414 pixel
八王子城「赤色立体縄張り図」を作成
東京都が公開した赤色立体地図をもとに八王子城「赤色立体縄張り図」を作成しました(記事作成:2024/2/7)。
赤色立体地図(以下赤色図と略)は長い年月の中で樹木が繁茂したような場所でもそれらを透過して、地表の微細な凹凸を可視化する技術です。
防災の観点からハザードマップがすでに全国的に展開されていますが、赤色図はそれを補完するものとして位置づけられています。
この技術を城跡の構造解明に応用しようとする試みはすでに散発的に行われていて、NHKの歴史番組のなどでも使われています。
2023/9/1 に東京都が多摩地区の微精細の赤色図・陰陽図を公開しましたので、八王子城にもそれを応用して「赤色立体縄張り図」を作成しました。
2.82 MB、5090 x 3600 pixel
1.49 MB、2000 x 1414 pixel
八王子城にも連続竪堀がありました
!!
赤色立体縄張り図(以下、これも赤色図と略)を活用して城郭の構造解明に結びつける一例を紹介しておきます。
今回は竪掘りです。
八王子城ではあれも竪掘り、これも竪掘りとよく言われるのですが、自然地形の谷筋であることを否定できないものが殆どです。
今回の赤色図では明らかに自然の地形ではないものを3か所入れておきました。
これとて、上に平地・下に林道があれば、林業作業での木材降下用の筋ではと指摘されるのは想定の内です。
ここで赤色図の左下、詰め城の石塁の尾根の南端を見てみましょう。
明らかに人の手で掘った2本の筋が下ります。
林業作業の木材降下用だったら2本はいらないはずです。
微精細に見ると並行して下る様が読み取れ、しかも複数の筋があるということで、築城時の連続竪掘りだと判断できます。
同様に残りの2箇所もありますが場を変えて(別Web頁で)説明する予定です。
赤色図の左下、詰め城の石塁の尾根の南端の竪掘り。連続する2本の西側のもの。
赤色図の右下、太鼓曲輪尾根から分岐し、御霊谷に下る尾根に削られた竪掘り。
「赤色立体縄張り図」のこれからの展開
東京都が全国の中で先陣を切って多摩地区の赤色立体地図と陰陽図を作成し公開してくれたことは、多少なりとも八王子城にかかわる立場からすると大変ありがたいことです。
これを活用して北条氏照が関係した城のかなりの数の「赤色立体縄張り図」を作成することが可能となりました。
ここでは取り急ぎ八王子城について赤色図を掲載しましたが、今後、新たに別Web頁を立ち上げ、氏照公ゆかりの滝山城、浄福寺城・・・・・と東京都多摩地区の城域の「赤色立体縄張り図」を作成していく予定です。
東京都公開のものは微精細であるけれどたくさんのピースで構成されているということで扱いにくい面もあります。
そこで、フリー(無料)で使えるツールを使って赤色図を作る手順なども紹介できればと思っています。
今後、他の道府県からも公開されるであろう赤色図・陰陽図をもとに、全国の城郭の「赤色立体縄張り図」作成のムーブメントになればと考えています。
八王子城「赤色立体縄張り図」を作成
東京都が公開した赤色立体地図をもとに八王子城「赤色立体縄張り図」を作成しました(記事作成:2024/2/7)。
赤色立体地図(以下赤色図と略)は長い年月の中で樹木が繁茂したような場所でもそれらを透過して、地表の微細な凹凸を可視化する技術です。
防災の観点からハザードマップがすでに全国的に展開されていますが、赤色図はそれを補完するものとして位置づけられています。
この技術を城跡の構造解明に応用しようとする試みはすでに散発的に行われていて、NHKの歴史番組のなどでも使われています。
2023/9/1 に東京都が多摩地区の微精細の赤色図・陰陽図を公開しましたので、八王子城にもそれを応用して「赤色立体縄張り図」を作成しました。
2.82 MB、5090 x 3600 pixel
1.49 MB、2000 x 1414 pixel
八王子城にも連続竪堀がありました
!!
赤色立体縄張り図(以下、これも赤色図と略)を活用して城郭の構造解明に結びつける一例を紹介しておきます。
今回は竪掘りです。
八王子城ではあれも竪掘り、これも竪掘りとよく言われるのですが、自然地形の谷筋であることを否定できないものが殆どです。
今回の赤色図では明らかに自然の地形ではないものを3か所入れておきました。
これとて、上に平地・下に林道があれば、林業作業での木材降下用の筋ではと指摘されるのは想定の内です。
ここで赤色図の左下、詰め城の石塁の尾根の南端を見てみましょう。
明らかに人の手で掘った2本の筋が下ります。
林業作業の木材降下用だったら2本はいらないはずです。
微精細に見ると並行して下る様が読み取れ、しかも複数の筋があるということで、築城時の連続竪掘りだと判断できます。
同様に残りの2箇所もありますが場を変えて(別Web頁で)説明する予定です。
赤色図の左下、詰め城の石塁の尾根の南端の竪掘り。連続する2本の西側のもの。
赤色図の右下、太鼓曲輪尾根から分岐し、御霊谷に下る尾根に削られた竪掘り。
「赤色立体縄張り図」のこれからの展開
東京都が全国の中で先陣を切って多摩地区の赤色立体地図と陰陽図を作成し公開してくれたことは、多少なりとも八王子城にかかわる立場からすると大変ありがたいことです。
これを活用して北条氏照が関係した城のかなりの数の「赤色立体縄張り図」を作成することが可能となりました。
ここでは取り急ぎ八王子城について赤色図を掲載しましたが、今後、新たに別Web頁を立ち上げ、氏照公ゆかりの滝山城、浄福寺城・・・・・と東京都多摩地区の城域の「赤色立体縄張り図」を作成していく予定です。
東京都公開のものは微精細であるけれどたくさんのピースで構成されているということで扱いにくい面もあります。
そこで、フリー(無料)で使えるツールを使って赤色図を作る手順なども紹介できればと思っています。
今後、他の道府県からも公開されるであろう赤色図・陰陽図をもとに、全国の城郭の「赤色立体縄張り図」作成のムーブメントになればと考えています。
2024年の初日の出です
2024年の八王子城山の初日の出です(撮影:24/1/1.AM 6:51)。
ようやくコロナ禍を抜けた新年です。
近年にない暖かい新年で、城跡駐車場から登りはじめ、金子曲輪あたりから少しずつ回りが明るくなってきました。
新型コロナ前に比べると2/3くらいの人数という感じでした。
これだけ人がいる中で城跡ガイドメンバーなど、知っている人は一人もいませんでした。
9合目上の展望スポット。見えている範囲は戦国北条の支配下です。
御主殿では以外に日出が遅く(7:48)、しかも太鼓曲輪の第二堀切のやや左側から日がのぼりました。
2024年の初日の出です
2024年の八王子城山の初日の出です(撮影:24/1/1.AM 6:51)。
ようやくコロナ禍を抜けた新年です。
近年にない暖かい新年で、城跡駐車場から登りはじめ、金子曲輪あたりから少しずつ回りが明るくなってきました。
新型コロナ前に比べると2/3くらいの人数という感じでした。
これだけ人がいる中で城跡ガイドメンバーなど、知っている人は一人もいませんでした。
9合目上の展望スポット。見えている範囲は戦国北条の支配下です。
御主殿では以外に日出が遅く(7:48)、しかも太鼓曲輪の第二堀切のやや左側から日がのぼりました。
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